総合的な学習について考えたさまざまなことがらを | ||
掲載しています。 |
研究集録の発刊に寄せて | 研究の深まりのために | |||
総合的な学習について | 総合的な学習を志向する | |||
本当の学びを求めて |
◇研究集録の発刊に寄せて◇ | 勤務校の平成12年度の研究集録のために書いたものです |
『平成12年度 校内研究のまとめ』発刊に寄せて各学年の先生方、研究推進委員の先生方の地道な研鑽とご努力のおかげで
今年度も「校内研究のまとめ」を発刊できる運びとなりましたことに
衷心より敬意を表したいと思います。
今年度は、新しい学習指導要領への移行の第一年度にあたり、
『「自ら学ぶカ」を育てる学習活動の工夫』をテーマに、殊に「総合的な学習の時間」
の実践と考察に視点をあて、昨年度の研究実績を踏まえて各学年から
さまざまな提案をしていただきました。
それらのことがこの「研究のまとめ」に集約されていますが、ここで明らかに
なった成果や課題をもとに、さらに来年度の確かな実践と検討に資することが
この集録の本来の意義であろうと考えています。
「総合的な学習の時間」新設の何よりの趣旨は、身体と頭を使った
具体的な学びの体験を通して、「学ぶことを学ぶ」ことにあります。
そこでは、学力を自分の外側にある知識や技能をひたすらに受け容れる
力としてのみではなく、自分自身と「自分をとりまく世界」との往還
を繰り返す「かかわり合う力」としてとらえることも重要になるでしょう。
そのような学びの姿こそ「自己への気づき」を通して「他者への気づき」
を生み出し、体験をベースにした豊かな感性の育ちや科学的情報に
裏付けられた知識を行動に結びつける強い動機になると考えているからです。
それがまさに「生きること」であり「学ぶこと」であると言えますが、
本校で提案されたここに集約された数々の実践は、その趣旨を見事に
とらえその方向を志向した意義深いものであると思われます。
教育改革は、新学習指導要領が示されたことで一段落した観がありますが、
実はこれからが本番です。
ここにまとめられた実績を大切に、確かめより深めていく糧として
この研究集録が大いに活かされますよう心から願う次第です。
2001.3.15
◇研究の深まりのために◇ | 勤務校の平成12年度の研究集録のために書いたものです |
◇はじめに◇
新学習指導要領の本格的実施を2年後に控えた移行の年度にあたり、本校も研究部を核に、各学年からの提案と検討による試行を重ねて
研究を推進してきた。
その成果がここに集約され、『研究のまとめ』として結実したことは喜ばしいかぎりである。
新学習指導要領の基調は、「教えられて習う」ことを柱とした学校教育を見直し、「自ら学び取る」ことで成長を遂げていこうとする子どもの育
ちを保障し、生涯学習社会の中で生き生きと生きていける人間の育成に寄与できる学校づくりへの転換にある。
そのような学校づくりをめざし、どこの地区、どこの学校でも研究や研修に余念がないが、とりわけ今回の改訂で新設された「総合的な学習
の時間」については、その趣旨や理念の理解の仕方、直接的で実践的な諸問題について多少の戸惑いと混乱も見受けられる。
『総合的な学習とは何か』『なぜ総合的な学習なのか』『どんなことをすればよいのか』『本当に力がつくのか』『基礎・基本とのかかわりは?』
等々、さまざまな側面から疑問が呈され、中には『学力の低下を招く』といったネガティブな意見も散見された。
「総合的な学習」について理解し構想するのは、決して容易ではない。
しかし、決して難しいことでもない。容易なことではないという感想を抱かせるのは、「総合的な学習」でねらうものや学習の仕組みがこれまで
の学校で行ってきた教育活動とその質をまったく異にするものだからである。
一方、難しくないと言えるのは、それ(すなわち教科の枠にとらわれない、頭と心と身体を働かせる総合的な学び)が私たちの日常的な生活
における学びでは、至極当たり前で自然なことだからである。
だが、学校化された学習の場では、日常的でごく自然な学びの意味を軽視し続けてきた。と言うよりも、そのことの大切さに気づかずに伝統的
な価値や技術を「教え、伝えること」が重視され、生活から乖離した論理で習わせることに精力を注いできたのである。
教育にかかわるさまざまな問題が出現し、「教えてもらって習う」ことを柱とした学校化された学習ではもはや立ちいかないという反省が、教育
改革の引き金になったということについては周知の通りである。
人間にとって自然な「学びの論理」を生かすことなくしては、学習者にとって意味のある学びは起きにくいことに気づいたのである。
また、従来の学校教育では子どもの自主性や主体性を標榜しながらも、根本的なところでは子どもがイニシャチブを取り、自分の学習をコント
ロールして自己成長につなげられる「自分の学習」にすることができなかった。
しかし、「総合的な学習」を核とした学校教育ではそれを2つの側面で転換していかなければならない。
一つには、学習の内容が子どもに委ねられるということ。
そして、もう一つには学習を制御し創りあげるのも、教師ではなく子どもであること。
たとえ、教師が仕組んだことであっても、子ども自身が『欲しかったものを自分の手で、自分の知恵と努力で手に入れたこと』と思えるような
学習を構想する必要があるのである。
「学習の主体」は、子ども一人一人であり、そのためには子どもの生活の論理、学びの論理を尊重すること、そして自分の学習として作り上
げることのできる環境を整えることが大切であり、それがひいては「総合的な学習」成立のカギとなるのである。
◇「学び」をとらえ直す◇
従来の教科教育を中心とした学校教育では、子どもたちに伝えたいところの「伝統的な価値や知識・技術」といった「内容」が子どもの学びた
いことや学ぼうとする意志に先んじて在り、子どもの自主性や主体性といったものは、それらをよりよく学んでいくための方途として意味を持つ
に過ぎなかった。
そこでの教師は「さまざまな大切なこと」を計画・配置し、時間割や支援体制を整えて「教えよう」とする。
しかし、これからはそれらを「子どもの側(学ぶ側)」からとらえ直していかなくてはならないのである。
ここで自動車学校に例をとってみよう。
私たちが自動車学校に通うのは、運転免許を取って自動車を運転したいからである。
決して交通法規や自動車の構造について知りたいから、あるいはS字カーブを脱輪せずに車を操縦したいから通うのではない。
ところが、自動車を運転する上で「大切」なことだから、という理由で法規や構造を否応なく「覚えさせられ」、S字カーブの曲がり方を幾度も
「練習させられる」ことになる。
学習者自身が自動車を運転するという具体的な経験を通し、その上で「これは大切なことだ」と実感し、「何とかして身につけたい」という必要
感を持って覚えようとするかどうか、すなわち学習者の意志とは無関係にその意味と価値が優先し、「覚えさせられる」のである。
学習が生起するためには、何よりも学習者自身が「意味あり」と思えることが必要であるにもかかわらず、それは一旦保留され、ともかくも「覚
えること」が強調されるのである。
『意味は後でわかるから、とにかく覚えなさい』というわけである。
そして、検定試験が終わるや否やせっかく覚えたことの多くは忘れ去られる。
検定試験をパスすることが「目的」の「覚える」作業だったからである。
(これはあくまでも例え話である。自動車学校ではこれで良いのであろう。)
私たちは、「教える技術」や「わかりやすく指導する方策」について多くのことを実践を通して身につけ、磨いてきた。しかし、自分がそのような
技術を工夫したり、駆使したりすることは、学習者である子ども自身に「やる気」になってもらえるよう工夫を凝らすことに比べれば容易であると
言える。
なぜなら自分がその気になれば良いからである。
しかし、自分ではない「子ども」にその気になってもらうためには、学習対象についての教師自身の深い理解と瑞々しい感性が求められる。
それがなければ、『なぜこれを学ぶのか』『このことの何がおもしろいのか』ということを学習活動そのものに移し替えることなどできないからで
ある。
子どもの視座で『やってみたい』『すごいことが起きそうだ』『捨ててはおけない』と思えるような学習を仕組めてはじめて『これは大切なことだ
から覚えておきなさい』という意味のない投げかけから脱却できる。「大切なこと」だからこそ、学習者の意志や意欲を支えにした「主体的・創造
的な学習」の中で身につけていくことが望まれるのである。
つまり、求められているのは「大人の論理から子どもの生活の論理へ」という学校教育のパラダイムの転換なのである。
その象徴が「総合的な学習の時間」における学びの活動なのである。
だからこそ、まず「内容ありき」では困る。『こんなことを覚えて欲しい』という願いが先行してしまうと、その趣旨を損なうのである。
◇総合的な学習が見えてきた◇
さて本校の「総合的な学習」の研究についてである。
まず何よりも、学校全体を包含する主題を設定し、それを子どもに提示したことが評価されるべきであろう。
しかもその内容が【わくわく発見タイム】と、子どもの幼いかも知れないが一人一人の「研究心」をうまく刺激できるものになっている。
唯一絶対の正解などは存在しそうもない自分たちを取り巻く環境(ヒト・モノ・コト)に隠された問題に、子ども自身が探索の手をつけていく上
で、そして問い続ける上で、この「わくわく・どきどき」という心の弾みは欠かせない。そして、『発見してみよう』という投げかけ、『自分で気づい
たことにチャレンジしてみよう』という「発見」への呼びかけ・誘いかけこそ重要なのである。
そこで大切になるのは、身近で些細なことにも「気づく」「目が向く」「驚ける」「感動する」子どもの感性であろう。「発見」につながる「大事なこ
と」を見落としたり、見過ごしたりして気づけないのでは、課題の生じる余地がない。感性は単なる感覚ではない。感受性といった受動的なもの
でもない。
その人なりの価値観に裏付けられた能動的に機能するフィルターなのだ。そして、「よさ」を志向する中で磨かれ育っていくものなのだ。瑞々し
い感性とは、「手つかずの感性」なのではなく「磨かれ研ぎ澄まされた感性」のことなのである。それは、モノゴトの神秘と真実に触れる体験の
積み重ねと客観的な観察と考察の姿勢の中でこそ育っていくものなのだ。
どんな驚きや感動を子どもたちが持ち得たか、そしてその驚きからどんな気づきやこだわりが生じたか、それがその子の課題にどう反映した
のか、等々について振り返り吟味してみることは、これからの研究を考える上ですこぶる重要な点であろう。
本校の実践を通して浮き彫りになった重要な点の二つ目は、その活動の成果がいずれも「子ども自身の言葉」で語られている点である。
誰かが言った借り物の言葉でではなく、その子が「自分なりの納得」の上で実感を伴った自分なりの言葉で『こうなんだ』と語っている場面を
いくつも見ることができた。
真の「わかる」とは、他の言葉で言い換えることができること、あるいはたとえ話ができることなのである。
自分が直接体験し、納得できたことによって、『僕にはこう思える』『私にはこうわかった』という手応えがなければ、自分の言葉で言い表すこと
ができないことを考えると、それはすこぶる重要な成果であると言える。
それがどのような「学び」によってもたらされたものか、ということを吟味することも、これからの学習を構想する上で有効な手がかりとなるだろう。
また、そのように自分の言葉で語られる成果を一人のものとせず、情報ボードやメッセージ・カード、ワークショップなどのさまざまな場で公開
できるようにしたことの有効性が認められた点も重要であろう。
総合的な学習に限らず、学ぶということは本来「創造型・表現型」の取り組みであり、その意味で発信型の行為なのである。
発信することをめざした活動や研究の結果わかったこと・わからなかったことを発信することが認められる活動があってこそ、他者と分かち合
いさらに学びを深めていくことが可能になるのだ。
その中で、自己の効力感を実感したり、客観的にふり返り見直し、確かめたりする行動を通して、自律的な構え(自己統制力)の育ちも期待で
きる。
総合的な学習について語るとき、「基礎・基本」との対比で語られることが多い。
曰く『体験的な活動のみでは基礎・基本がおろそかになるおそれがある』等々。
しかし、学ぶ上での「基礎・基本」とは、「読み・書き・算」のように狭くとらえるだけではなく、もっと広げて学ぶ上での粘り強く取り組む力や構
え、他者の主張を傾聴したり受容できる力、探索の意志や意欲、よさに気づく感性、よさを志向する情操、など包括した言い方をすれば「自己
実現に向かおうとする構えや生き方」でもあるととらえるのが妥当であろう。
「総合的な学習の時間」のねらいが「自己のあり方や生き方を考える」としているのも、そのような趣旨から出ていることに着目すべきであろう。
そこで培われた力や構えは、当然のことながら教科の学習にも「生きて働く」ことが期待できる。
総合的な学習の時間で学び取った内容が生かされるということもあろうが、それ以上に取り組み方や学び方、学ぶ姿勢といった面でより「生き
て働く」はずである。
自分で身につけた知識やワザ(生きた知恵)を自分の言葉で語り、他者に向けて発信し共有していくことができる学びの場は、まさに「生きる
力」を発露しながら自ら育てていく場でもあるのだ。
「総合的な学習」はさまざまな研究発表の場で取り上げられ、その多くが派手なイベント中心のものである。
しかし、イベントをめざせばそれが総合的な学習になるといった流れに安易に乗らず、本校はその本来の趣旨を確かにとらえ、「子どもの成長に
貢献できる学校づくり」の柱としての総合的な学習の研究を地道に着実に進めて行きたいものである。
2001.3.15
総合的な学習について | 平成10年度の職員室便り『リサーチ』に書いたものです |
総合的な学習は従来の教科の学習とは質・内容ともに異なっています。教科の発想で総合的な学習を論じてしまうと、せっかく生まれてきたこの学習の趣旨を生かし切れないまま、さまよってしまうのではないか、と危惧しています。
総合的な学習は、子どもたちの必要感にフレキシブルに対応していける広がりと柔軟性を大事な柱としています。誤解を恐れずに極言すれば、「きちんとした」計画や「ゆるぎない」計画のもとで行われる学習活動ではありません。
それは、そもそも総合的な学習が生まれてきた背景をみればわかることですが、ある子どもがポツンとつぶやいた一言を「その子だけの問題にしたくない」と願った先生の、「じゃあ、みんなでそこへ行って調べてみようか。」という思い切った提案が出発点なのです。
現地に幾度も出かけて見つけたこと、生じた新たな疑問、わき起こった新たな視点などから、どんどん活動が広がり深まっていくのを手助けしながら子どもの学びに立ち会った先生の、「これこそ、子ども自身の生きた学び取りである」という新鮮な驚きと、受けた感銘がバックとなっているのです。
そこからは、見つけたことをまとめて発表したいという意欲から文章や紙芝居、VTR、壁新聞などのさまざまな方法を駆使して、進んで表現しようとする活動も生まれました。
自然資源、地域の遺産として大切にされるべきその現地が汚されているのを見てとった子どもたちの「何とかしなきゃ」という切実な願いが市役所の環境課に働きかける行動につながり、それだけではことが進展しない挫折感を味わった子どもたちの、せめて自分たちができる範囲から何かしようとしてとりかかった「注意を促す立て札づくり」、空き缶やペットボトルのリサイクルの大切にも目を向けた環境学習への発展、土壌の汚れと水の汚れの関係についての聞き取り調査、さらに全校に向けての発表、他校への呼びかけなどといった広がりを見せ、ダイナミックな生きた学習活動へと発展したというのです。
それはあくまでも結果として「ダイナミックで活動的であった」のであって、最初からそれを目論んでいたのではない、とその先生は言います。
地域の古老や土地の様子に詳しい高校の先生の話を取材するフィールド・ワークも、土壌と落ち葉の深い関係について調べる調査・探索活動も、活動の広がりにつれてわきおこってきた「止むに止まれぬ必要感」から生まれてきたものであり、それらはすべて子どもから出された子どもらしい追求のアイディアだったというのです。
最初から、「こんな活動とこんな活動をこんな順序で」という具合にあらかじめ計画されて(しかも指導者の手によって)いたのであれば、このような内なる欲求に支えられた広がりと深まりはどこからも出てこなかったかも知れません。
さらにそこでは、表現手段としての国語の活動も、自分たちをとりまく社会環境への働きかけを通して社会の仕組みに気づく「社会の学習」も、発見や検証を積み重ねて「理科的・数学的な見方や考え方」も、一挙同時に自分にかかわる大切なこととして学び取っている頼もしさが感じられたと言います。
それらの活動を子どもたちと一緒に展開し時には傍観して、一部始終を目撃したその先生の授業を見る目、授業を考える目は、それ以降、大きく変わったと言うのです。
つまり、総合的な学習の発想で「教科」を見直せるようになり、その目で各教科をとらえ直してみると、子どもにとってずいぶんと「不自然な学習」を強いていたような気がする、という反省すら起こってきたのだそうです。
そうなのです。
総合的な学習を展開することで、もっとも期待されるのは、それをすることで教科の授業が変わるということなのです。逆な言い方をすれば、教科の授業を発想する視座から総合的な学習を構想しても、授業観は変わらないでしょうが、総合学習という横断的・総合的学習、生活の場で抜き差しならない学習をすることで、新しい授業観をつくりあげることは可能なのです。
ですから、教科の発想で総合的な学習をとらえるのではなしに、教科からいったん距離を置いて広がりのある(さまざまなことがらについて楽しく探索でき、それがさらに広がりを生むこと期待できる)主題を見つけられるかどうかが鍵となるでしょう。
そこでは、「大胆に」かつ「細心に」がキーワードとなるでしょう。
それができれば、いろいろな教科とかかわりのある活動や学習内容が見えてくると思いますが、くれぐれも合科的な発想で「国語のこの分野と理科のこの分野を統合的な学習として仕組もう」と考えてしまわないようにしたいものです。
それでは、構想のスタートからして道を踏み外してしまいます。
私たちは、子どもの「止むに止まれぬ必要感」が生じるような火付け役であり、「こうしたいけど、どうしよう」の声が挙がった時の相談役・聞き役であり、学習をコントロールしていくのは子どもたち自身なのです。
何を学ばせるか、と言えばそれは標準的・教科的な「知識や技術」ではなしに、自分たちで学習をつくりあげていこうとする構えや粘り強く取り組む姿勢、ものの見方や考え方、探索の方法といった学び方なのです。
それらは、学習力すなわち学習を推進するエンジンとして教科の学習に跳ね返っていくはずだ、という基本的なとらえが総合学習の基調にあるのです。
ですから、「何を学ばせるか」といった視座から総合的な学習を構想せずに、「何が学びを生むか」といった視座から子どもの活動を促していくことが何より大切なのです。
総合的な学習を志向する | 平成10年度の職員室だより『リサーチ』に掲載したものです |
新しい学習指導要領が告示され、特に『総合的な学習の在り方』について関心が集まっているようです。来年度(平成11年度)いっぱいは、現行の指導要領から逸脱することを避けなければなりませんが、翌年度からは移行措置がなされるでしょうから、実際は来年度から着々とぬかりなく準備をしていかなければ間に合わないでしょう。
学芸大附属や筑波大附属では、すでに「総合的な学習(以下、総合学習)」の時間を研究テーマに掲げて研究を進めていますが、それだってもう何年も前からの実践の積み上げがあるからこそ、できることだろうと思っています。
ところで、総合学習を『従来の教科以外に加わったもう一つの領域』と教科の学習と並列にとらえている人も多いようです。
しかし、そうとらえてしまっては総合学習設置の趣旨を十分生かすことはできないだろうと思っています。
新しい教育観は、『文化的な実践への参加を通して真の学力を培う』ということをベースにしています。
「文化的な実践」と言うと難しそうですが、それは端的に言えば「おもしろい追求」と言い換えることができるでしょう。
「文化を生み出そうとする人々のいとなみ」といった意味で、そのなかみは「概念、法則が作られていく過程」や「『文化遺産』のなかにある『人間の力』」、あるいは「目的」としての「興味関心」だと言ってよいでしょう。
つまり、難しいだけで何の役に立つの? と多くの人が思っている数学や、苦しく辛くただ記録を伸ばすためだけの、ガマン大会みたいに思われている持久走も、それらを追求してきた人々にとっては、きっと「おもしろい追求」だったはずだと考えるわけです。
その教科・教材ならではの「内容としての豊かさ」によって、「追求すること自体」がおもしろかったからこそ、それらが今日まで発展してきたと言って良いだろうと思われるのです。そのような「おもしろい追求」を授業に持ち込んでみたらどうだろうか、と考えてみると、そして工夫と実践・考察を積み重ねていくとわかりますが、それは教科だけで解決できない問題であることに気づかされます。
例えば、学ぶのは子どもたちですから、「問い」を発するのは子どもたちであるのが自然です。不思議さを感じたり、疑問を持ったり、もっと知りたいと思ったりして追求を始めるのは他ならぬ子どもたちであるべきなのです。
しかしながら、教室で「問い」を発しているのは多くの場合教師です。教師が問い、子どもたちが答えることによって授業は進められていきます。教師は、子どもたちに答えさせたい「正答」を用意しているのが普通です。そして、その「正答」に子どもたちを導いていくために、様々な教育的技術(発問の工夫、タイミングのよいうなずき、発言の要約、板書の工夫等)を駆使します。一方子どもたちも、あいまいに応えたりして教師の反応を見て、先生は何を答えさせたいのだろうと「guessing(推測)」していくのです。このような教師の暗示と子どもたちの推測による共同作業(guessing game)としての授業は、そもそも子どもたちにとって、学ぶということの自然な姿になっているのだろうか、というわけです。
そのような子どもなりの「問い」や「興味や関心」は、その子の日常の生活体験に深くかかわっていますから、学校生活を含めた生活の「体験」を見直し、望ましい体験の積み重ねができるような生活を編んでいくことから始めないと、従来の『教え→教えられる』学校教育から抜け出せないのだと気づいたのです。
そのような反省に立った学習づくりが総合学習の原点なのです。
つまり、総合学習を教育課程のベースにすることで、よりよく教科の学習についても学んでいけるし、総合学習で獲得した「学び方」を生かして学習に取り組んでいけるのです。
総合学習で培おうとしているのは、直接体験を通した本性の「ものの見方や考え方」、そして学びに向かおうとする「意志や意欲、構え」などですが、それが教科の学習で生きて働くことをこそ願っているのです。
ですから、1図のように並列でとらえるのではなく、2図や3図のようにとらえて構想していくことが肝要なのです。
総合学習を核にして、その周囲に教科や領域を配置する、というように並列ではないとらえ方をすると、両者の関係がわかりやすくなると思われますが、そうとらえた上で、見方や考え方、学び方を獲得できるような総合学習、しかもあらゆる場面で生きて働くことが期待できる資質や能力の育ちに貢献できる総合学習を構想できるかどうかが正念場となるでしょう。
そして、「総合学習や生活」e「教科の学習」という循環が生じて、よりよい育ちにつながっていくような全体計画が求められているのです。しかも、その指針はこれからも示されないはずです。それを各学校の創意・工夫によってつくりあげていくことが教育改革のもっとも大きな眼目だからです。これから1年間の試行と実践がものをいうことになるはずです。お互いがんばりましょう。
=本当の学びを求めて= | 平成13年度研究集録の巻頭に寄せた文章です |
◇はじめに◇
つい先頃、30年来の友人に喜ばしい出来事があった。つい自分のことのように嬉しくなってしまい、小さな曲をつくって
ほんの心ばかりのプレゼントをしたいと思い立った。
できれば、小さなピアノコンチェルトのようなものにしたいと思った。いろいろなジャンルの曲を分け隔てなく公平に聴く彼
のことだから、そんな曲も喜んで受け取ってくれて気に入ってくれるかも知れないと思ったからである。
めざしたのは、服部克久が作曲し、駆け出し時代のポールモーリアが編曲し、彼の指揮するオーケストラに合わせてリチ
ャード・クレーダーマンがピアノを演奏するようなイメージを持った曲。
できあがるまでに4〜5日かかってしまった。
それは、アンサンブルの譜面の作成から見直しや手直し、演奏までをコンピュータとシンセサイザーで行える作業である。
文字通りデスク・トップ・ミュージック。机の上だけでおおよその作業を行うことができるし、時には机の上ではなく炬燵の上
でもできてしまう。(この場合は、オコタ・トップ・ミュージックか)
しかも作曲と編曲の作業を同時進行で行うことができるので、数小節つくっては聴き、聴いては修正の手を加えたり新たな
パートやフレーズを加えたりしながら、少しずつめざす演奏の形に近づけていくことができるし、気に入ったものができるまで
何度でもやり直しが可能なので、ついつい時間を忘れて凝ってしまう。
見直しの観点は、『贈り先の彼に気に入ってもらえるかどうか』である。
こんな旋律なら彼に喜んでもらえるだろうか、こんな和声進行を彼は気に入ってくれるだろうか、どんなサウンドなら何度も
繰り返して聴いてくれるだろうか等々、作りながら自分に問い返し、試して聴く音楽から問い返されることでついつい工夫す
ることを止められなくなってしまうのである。
そのため、時間の経つのも忘れて没頭してしまい、ついには彼に送る曲を完成させたいのか、自分のめざす音楽に仕上げ
るための工夫そのものが楽しくそれが目的なのか忘れてしまうほどの楽しい時間を過ごすことができた。
しかもそこでは、これまでに試みたことのない手法を試してみたいという欲求もむくむくとわき起こり、試す中で『こんな楽器
の組み合わせでこんな響きが出せるのか』『こんな転調もなかなかいけるじゃないか』といった具合にこの歳になって新たな
発見もいくつかすることができた。
こんな作曲の作業をする中で『これは総合的な学習そのものだ』という気がした。
一つには何よりも具体的な「つくる」経験を通して『学ぶ』ことができること。
二つには、このような活動には対象から「問い返される」ことでよりよいものをめざそうとする心の自然に動きが生じること。
三つには、目的が明確であること。すなわち、表現して伝えたい相手がはっきりと意識され、伝えることが「工夫という行為」
の目的として活動の間じゅう持続されること。
そして四つには、そのような活動であることにより、無我夢中の状態(フローの状態)になれること。
さらに五つには、活動自体が目的として意識され、それをすることによって「自分が賢くなるだろう」とか「こんな知識や技を身
につけられるだろう」といった内容知が先行していないこと。
内容は、結果として「自然に」「無理なく」ついてくるものなのである。
◇学習の創造を支援する◇
総合的な学習の時間を創設した趣旨は、何と言ってもこれからの、というよりもう既に始まっている「生涯学習社会」でよりよく
生きていく上で望まれる力や構えを子ども自らが身につけていけるようにすることにある。
「子ども自らが」と書いたように、そこでは「教えられて」あるいは「そうしなければならないから」という他からの働きかけや外発
的な動機付けによってではなく、子ども自身の内発的な動機によって学習を組み立てていく中で身につけていくことが望まれる。
そのためには、先の例に書いたように活動それ自体が目的として意識されるような学習として仕組まれている必要がある。
その目的も子どもが無我夢中になって取り組めるものであればなお望ましい。そして、その目的に向けた活動に我を忘れて取り
組んでいるうちにいつの間にか、先生の「こうあって欲しい」「こんなことを知って欲しい」と望んでいる力や構えが結果として身に
付いていくといったことが本来の学びの姿で、人間本来の自然な行動様式だからである。
ところが、私たちはついつい「学ばせたい内容」を直接的な課題として子どもたちに提示しようとしてしまいがちである。
教科の授業であっても、私たちのすべきことは「学ばせたい内容」がいつの間にか自然に身に付いてしまうような「間接的な課題」
として提示する工夫をし、子どもが自律的な学びを展開できるようにすることなのである。
山田洋次監督の映画「学校」の中で、ひらがなの読み書きを満足にできない田中邦衛扮するところのおじさんが、竹下恵子扮する
ところの先生に一生懸命たどたどしい字で手紙を書く場面がある。額に汗して、自分の思いを伝えることに懸命なその場面はこの映
画の中でも最も印象的な場面であるが、このおじさんは字を覚えようとしているわけではなく、自分の思いを伝えよう(表出しよう)とし
て懸命なのである。そして、その懸命さがこのおじさんに字を覚えさせているのである。
私の言う「間接的な課題」とはこのことである。
内容が先行してしまい、「これを覚えよう」と言われても内発的な動機が生じる保障はない。
しかし、子どもの気持ちに寄り添って「身につけさせたいことがら」が結果として身に付くことが期待できるような活動を仕組めば、
学びの方法を探りながら併せて内容も身につけていくことが予想される。
そのような「子ども自身が学習をつくる」ことを通して自分自身を律し、学びの楽しみを味わいつつ「学び方」を身につけ、「内容」を
習得していけるような学習を構想すること、つまり支援することが私たちの最大の務めなのである。
「支援」とは文字通り「指導」とはその内容を異にするもので、言葉を換えれば「待つ」ことでもある。そして、「待つ」ことは手をこまね
いて何もしないことでもない。
それは、「学びが生じるような手だて」を積極的に打つことであり、その場を子どもに「気づかれないように」仕組むことである。
たとえ先生が仕組んだことであっても、子どもが自分の願いで、そして自分の手で学び取ったと思えるような学習の場を準備すること
が「支援」のなかみなのである。
そして、そのことは総合的な学習では教科の学習以上に強く意識されなければならない。
◇私たちも探究する◇
総合的な学習については、これまで3年間の実践を通して明らかになってきた点が多い。
それは、今年度の各学年の提案授業や
それに続く授業検討である方向が見えてきたことでもわかる。実践を重ねるごとに、総合的な学習の求めるものとの間のギャップが
埋められてきた感が強いが、それは指導の方法から窺えるものではなく、授業検討の中で交わされる言葉の端々にあるいは意見を
形作る言葉の重さの中に窺えるものであることから、いっそうその感を強くしている。それは、考えが深まったことの表れでもあるし、
見方が鋭く確かになったことの表れでもあるからである。
さて、もうじき訪れる来年度から本格的に総合的な学習を柱とした新しい教育課程が展開される。この教育課程の中で子どもたちが
より確かな学びを展開し、自立した学びを身につけていくためには、柱となる総合的な学習をよりいっそう子どもにとって自然で本当の
学びを創りあげることのできる時間としなければならない。
そのためには、総合的な学習の時間の計画を固定化してはならない。
子どもに寄り添うためには、出会う子どもたちの実態から発想されなければならないからである。以前にこの計画でうまくいったから、
今年もそれで展開すればよい、といった安直さは総合的な学習の計画とは無縁なものであると自覚しなければなるまい。
その都度見直し、吟味・検討し、いまの子どもにとって「学びがい」や「やりがい」が感じられ、学ぶ楽しさが味わえ、学び方を身につける
ことができるものであるかどうか、常に見直す「試行と実験の場」として位置づけられなければならないのである。
そこでは私たち自身も「学ぶ主体」として子どもに相対する者となる。
そこでは、自分が取り組んでおもしろいか、自分もしてみたいか、自分の知的好奇心が刺激されるか、などの視点で計画を常に見直す
姿勢を持つことになるだろう。「教える者」ではなく、自分も「学ぶ者=学ぶモデル」として子どもと同じ問いに立ち向かうとき、それらの視
点でついつい自己の支援(学習のコーディネート)が妥当であったかどうか吟味せざるを得ないからである。
そのような「学びのモデル」を目の前にしてこそ、探索の仕方、まとめ方、表現の仕方を自分の手で自分なりに確立していけるのであり、
それによって研究者、表現者、ボランティア、プロヂューサー、ネットワーカーなどのような主体的な人間の育ちに貢献できる学校づくりに
つながるのであり、本当の「生きる力」の育ちに寄与できるのである。
たった一人の先生では、40人近い子ども一人ひとりの学習に応じることは難しいし、指導することは困難だという議論を耳にすることが
ある。
難しいのは、一人ひとりの子どもに答えを準備しよう、正答を教えようとするからだ。
さまざまに苦心をし納得いく答えを導き出すのは子どもであって、先生なのではない。
答えを教えるのではなく「学び指導する」のが先生の主たる務めだととらえ直せば、決して難しいことではない。また、子どもと同じ問いに
立ち向かい、わからなさの持つ妙味を先生自身がおもしろがることができれば、『おもしろいからやってみようよ』と子どもを「学びに誘う」姿
勢を持つこともできる。
そのような学びの場を構想するためには、私たち自身も子ども以上に探究する者、未知の問題に楽しく立ち向かう者としてあり続ける必要
があり、そのことによってこそ総合的な学習を「子どもの夢と希望をかなえる学習」に再構成できることを信じて、歩をゆるめずに進んでいきた
いものである。
◇学校の再生をめざして◇
総合的な学習の実践を通して期待されているのは、一定の知識や技術を覚えることが学習であるとした「学校化された学び」から脱却し、
まさに子どもにとって意味のある学びが繰り広げられる場としての学校、本来の学校の姿に立ち戻ることにある。
それは喩えて言えば、「子どもたちが自分たちの秘密基地をつくれるような」学校であるかも知れないと考えている。
それはあくまでも比喩としての言い方であるが、子どもたちが自分の秘密基地をつくるという期待に満ちた活動は、さまざまな工夫に子ども
自身を追い込むことが予想される。
しかも「秘密」でありながら、『見て見て。こんなすごいものができたよ。』とついつい人に自慢したくなるもの、他とは異なる「自分自身が表れ
るもの」をめざしてしまうことも予想される。
さらに、つくる行為を通してかけがえのない「知恵とわざ」を知らず知らずのうちに編み出し、磨き、身につけていくことも予想される。しかも
自分のからだとあたまとこころをフルに発揮させることによってである。
またそのことによって自分の個性に改めて気づいたり、その作品を通して成長を遂げた自分自身を自分の目で実感することも期待できる。
「教え手」の論理ではなく、「学び手」の論理、人間にもともと備わった自然な行動様式や思考の様式が尊重される学校に立ち帰ること、
それが「学校の再生」に込めた意味であるが、総合的な学習がその趣旨を生かして実践され、それを柱とした教育課程を持った学校に生ま
れ変わること、それこそが最大のカギなのである。
難しく考える必要はない。
私たちが日常生活の中で感じられる「やって楽しいこと」「心が躍るようなこと」「手に入れてみたいと思うこと」「挑戦してみたいこと」とはどの
ようなものか、やってみる価値を感じるのはどんなことかについて私たちが思いをめぐらし、私たちをとりまく環境(モノ・ヒト・コト)の秘密に迫れ
るような活動の計画を子どもたちとつくりあげること、
そして活動を子どもにあずけると同時に率直な疑問を子どもに発し続けること、子どもの学習の成果を受容し鏡のようにありのまま写し出して
見せること、それだけが重要なのである。そう考えてみると、「支援」とは「カウンセリングマインド」と通じるものがあると思えるし、それこそがこ
の研究の正念場と言って良いとも考えられる。
ここまで書いたところで紙数が尽きた。
この実践研究がこれからもますます深まり、二の宮小学校の子どもたちに「よりよい学び」をもたらすものになること、そしていっそう「生き生きと
した元気に満ちた学校」になることを切実に願いつつこの稿を閉じることにしよう。 2002.3.25