◆絶対音感と相対音感◆ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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このところ「絶対音感」について考えることが多い。 私自身は絶対音感の持ち主ではないので、絶対音感を持っている人たちに羨望を感じたことも多い。 よく見かける光景だが、和音を、それも協和音ならまだしも、6音も7音も同時に奏される不協和音までをも聴き取り、それらの音をいとも簡単に正確に言い当てる幼い子どもたちの姿がテレビなどで紹介されるたびに、『何というすばらしい音感の持ち主たちだ』と驚かされることも多い。 実はかつて勤務していた小学校の教え子に絶対音感の持ち主がいた。 ある教材曲を歌う際に、クラスの中に音域が高く歌いにくそうにしていた児童が多く見られたので、二度低く移調して前奏を弾き始めた途端、『楽譜に書かれた音とピアノの音が違う』と声をあげる児童が幾人かいたのである。 それは、楽譜と私の弾く前奏の間にギャップを感じ、『それでは楽譜を見て歌いにくい』と不快さを表明したことに他ならない。 また、大学院で親交のあった友人の中にも絶対音感の持ち主がいた。 いずれもチンと指ではじいたガラスの器のピッチを正確に言い当てたり、コツコツと拳で叩くテーブルの音を音名で指摘したりすることができるのだ。その姿を目の当たりにして、絶対音感とは何とすごい能力かと驚くばかりであった。 できればそのような高い能力を身につけていたかったものだと思ったものだが、それは高嶺の花のようなもので、私のような凡人には入手不可能なものでしかなかった。 同じような思いで絶対音感保持者を羨ましく眺めている人は多いのではないだろうか。 しかし絶対音感保持者とは、音であれ音楽であれ、聞こえる音をデジタルチューナーがピッチを検出するがごとく言い当てる能力を持った人のことであって、音楽的な能力が高い人であるとは限らないのだ、とある研究者は言う。 この考えに私も大いに賛成である。現に、私の師事した高名な作曲家は、『僕は絶対音感は持っていない。だが作曲や指揮に不自由はしていない』と常々言っていたからだ。 むしろ絶対音感が邪魔になることさえあるらしい。 先に紹介した私の友人は、回転数の正確でないレコードやテープレコーダーの演奏を聴くと、ピッチの違いばかりが気になって音楽を楽しむどころかイライラしてしまうのだとよく洩らしていた。 幸いなことに、相対音感しか持たない私は、その演奏が正確に原調で奏されたものでなく、多少ピッチが高くても低くても音楽に浸って楽しむことができる。 絶対音感を持つことが幸せであるとは限らないのだ。 音のピッチを正確に識別する能力については、例えばペンギンの親子やヌーの親子が数万の群れの中で互いに発する鳴き声の中から我が子・我が親を見つけ出すように、生存に必要な能力としてほとんどの動物が保持する力だ。 しかし、音のピッチを正しく言い当てることが出来るからと言って、その音のつながりが持つ音階・調・旋律・和声の音楽的意味がわかるわけではない。 音楽をする上で、絶対音感を持つことは好ましいことであるには違いない。だが、なければ困るというものはないのだ。 もっと大事なことは、相対的に音をとらえ、旋律や和音を調の中で把握し、音楽的に処理することのできる力なのだ。 なぜなら、音楽は音同士の有機的結合によって構成された表現であるからだ。(シェーンベルクの提唱した十二音技法による無調性の音楽以降の音楽はこの限りではない。それら前衛的な音楽は、音の有機的な組織を積極的に避けることで古典的な作曲技法から何とかして逃れようとした産物であり、いわば無機質であることを主眼としているからだ。) つまり、絶対音感を保持することは高い音楽的能力を持つことの必要十分条件ではないと言って良いのだ。 そう考えると、絶対音感は「ないよりはあった方が良いが、なければ困るものではない」といった程度にとらえることができるし、相対音感は音楽をする上で「必要不可欠な感覚」であり、教科音楽科教育においてはこの相対音感の育成こそめざされるべきだと言うことができよう。 絶対音感を「音高弁別・同定」の力であるとすれば、相対音感は「音程比較による弁別・同定」の力であると言うことが出来る。だから、一方は「知覚」の領域の話であり、他方は「認知」の領域にかかわる話であるということができよう。 すなわち絶対音感によるピッチの判定は、直感的に処理されるものであり、調性感や機能和声感は関与しないが、相対音感によるそれは基準となる音との関係で音をとらえようとするので、調性感や機能和声感と深く関わった音楽的反応であるということができる。 それゆえ、別の研究者は『相対音感は、音楽実践にとって不可欠であり、相対音感教育は、実際にはソルフェージュ教育と重なり合う部分が多い』とも指摘している。 そこで、もうずいぶん昔に結論の出た問題ではあるが、「固定ド唱法か移動ド唱法か」と論争の的になったことが思い出される。 私たちは小学校の頃から、教材曲を階名唱する経験を積み重ねてきている。 先生の『ドレミで歌いましょう』という指示で『ドドソソララソ・・・』と歌った経験はどなたもおありであろう。 それ以前、戦前の日本では『ハハトトイイト・・・』と教えられたはずである。 このように、音階を構成する各音に1音節の名称を与え、読譜の便宜を図ることをソルミゼーションと呼んでいる。 ソルミゼーションにはいくつもの方法があるが、日本では先に紹介した「ハニホ・・」による歌い方の他に「ヒフミ・・(123・・・)」という数字譜による読み方が行われたこともある。この数字譜は現在でもハーモニカや大正琴の楽譜で使われているが、学校教育の場では「ドレミ」による階名唱が一般的である。 ドレミ唱法の起源は、11世紀イタリアのグィード・ダレッツォによって基礎が確立されたもので、「聖ヨハネ賛歌」の歌詞から取り出したut、re、mi、fa、sol、laの6文字を3種の6音音階(ヘクサコード)にあてはめたことによるということがよく知られている。 この私たちに最もなじみの深いドレミ唱法には二つの方法がある。「固定ド唱法」と「移動ド唱法」である。 ソルミゼーションには、音階の各度音の相対的関係を拠り所とする階名唱法と、音の絶対音高に基づく音名唱法がある。 移動ド唱法は、前者の階名唱法の一つで、ハ調であろうがト調であろうが、その調の主音を長調であれば「ド」と、短調であれば「ラ」と読み替えて歌う方法である。固定ド唱法は、後者の音名唱法によるものである。 元来、階名の「ドレミ」は、音と音との関係を示す「音の役割り」を音名(CやD、日本ではハとかニ)に与えたものである。 例えば「中央ハ」は本来261.63Hzであったり、「へ」は349.228Hz、「ト」は391.995Hzであるといった意味しか持たなかったものに「主音」「下属音」「属音」などの役割りを与えることにより、「調」の概念が付加されたのが「ドレミ=階名」の概念であり、それがうまく生かされたソルミゼーションが「移動ド唱法」なのである。 それは、先に紹介した「123・・・(ヒフミ・・・)」唱法についても同様で、この数字譜が提唱されたのも、音楽につきものの「移調」に対処するのに有利である、すなわち調性感を損なわずに読譜が可能であるという理由からであった。 すなわち「移動ド唱法」は、【ドレミのシラブルが音階の各度音の機能と対応しているため、調性感の把握に優れている】読譜法なのである。 しかし反面、音名(ハニホ・・・)と階名(ドレミ・・)を混同してしまったり、調性の変化に伴って楽譜上の主音の位置が変わることなどから、読譜に困難さを感じる人も多いというのが現状である。 また、調の変化に応じて読み替えの必要が生じるため、近年の楽曲のように頻繁に転調を繰り広げる曲においては困難さを伴うのも事実である。さらに、読譜の根拠を相対的な音関係におくため、無調性の音楽では意味を持ちにくいといった限界があることも事実である。 だが、万人の耳になじんだ階名「ドレミファソラシド」の音の梯子を、決して動くことのない基準としての音名「ハニホ・・・」の各音の上でずらして掛け替え、読み替えるだけのことだと理解することができれば、調性感に支えられて各音の機能を把握した上で、音程感を確かに持って読譜することが可能なのだ。 いくつか例を挙げると下のようである。
ところが、音楽の教師の中にも音名と階名の概念の違いを混同してしまい、その違いをきちんと子どもたちに伝えることができないために、子どもたちが混乱をきたしてしまい学習に支障をきたすことが多かったというのが、これまでの実情ではなかったか。 そこで、無精にも、そして乱暴にも、どのような調であれ、たとえ#や♭のついた派生音えあれ、すべてをハ調読みで読み下してしまおうと編み出されたのが「ハ調読み」や「白鍵読み」である。 「固定ド唱法」は、絶対的な音の高さを意識して読譜する方法で、たとえ何調であろうが、A音(イ)はラ、G音(ト)はソとして歌う方法である。一見「ハ調読み」と似てはいるが、派生音を無視することはしない。 さらに「ハ調読み」や「白鍵読み」と同様、調による読み替えの煩雑さから自由なため、読譜そのものは容易である。 しかし、この読譜法は絶対的な音高感を基盤としているため、万人向けではない。 また、シラブルが音階の各度音の機能を表さないため、調性感の認識には適していない。 私はかつて中学校の吹奏楽を指導していて、次のような経験をしたことがある。 フルートを担当していたある女子生徒は、幼い頃からピアノのレッスンを受けており、読譜の能力もピアノの演奏技能も相当なものであった。 彼女はフルートの演奏に関しても、技能は相応のものであったのだが、アンサンブルにおいてその力を十分には発揮できなかった。 ハーモニーをうまく表現できないのだ。自分の吹いている音を、他のパートの音に寄り添わせることができず、思うように自分の音を生かしたハーモニーの表現ができなかったのである。 フルートは作音楽器であり、キーを正しく押さえたからと言って、その調の和音を表現するはずの一音一音を吹けるとは限らないのだ。 ピアノであれば、調を意識せずとも鍵盤さえ間違えなければ、(平均率上ではあるが)ハーモニーを表現することができる。 おそらく彼女は、ピアノに対すると同じ気持ちでフルートを演奏していたのだ。 同じF#の音でも、嬰ヘ長調のそれとト長調のそれとでは、調における機能が異なり、当然のことながらピッチも異なるはず だ。そのために、アンブシュアも息のコントロールも変えて演奏するのが「人間として自然な感情とそれを実現するための動作」であるにもかかわらず、ピアノの演奏に長けた彼女は、調性感を意識せずに読譜をこなし、フルートの演奏にもそれを持ち込んでしまったのだ。 思うにピアノやオルガンの演奏者と異なり、作音楽器である管楽器や弦楽器の演奏者は、バイリンガルならぬ「バイ読譜」をこなしているはずである。Bb管でありながら、inCで書かれた楽譜をinBbで読み取るトロンボーン奏者に至っては、3つの読譜作業を瞬時にこなしていることになる。 管楽器や弦楽器の奏者は、固定ドで楽譜を読み取ると同時に、移動ドでその調における各音の機能を瞬時に認識し、音を作って一音一音を演奏しているのだ。 ついでながら、かの女子生徒はフルートに慣れ、調性を意識した作音を心がけた練習を通じて、フルートの主席を務めるまでに成長したが、「固定ド」に慣れすぎた彼女にとって作音の作業がごく自然に行えるようになるのは、高い壁を乗り越えるようなものだったに違いない。 音階の中での各音の機能を認識することは、音と音とのかかわりに見いだされる相対的・有機的な結合を感じ取る音感の働きによる。 私たちが指導の対象とするのは、義務教育諸学校の児童・生徒や一般市民である。 よく言われることだが、義務教育では「移動ド唱法」が用いられ、専門教育では「固定ド唱法」が用いられる通常である。 しかし、大学等での教育だからと言ってその学生がすべて絶対音感保持者とは限らない。 むしろ相対的な音感を支えとして音や旋律・ハーモニーを認知し、チューナーやコンピュータにはできない「音楽的な感情や意志」の感応に深く関われる「移動ド唱法」こそ重視されるべきであり、「固定ド唱法」に慣れた人であろうとも、「移動ド唱法」を軽視すべきではないのだ。 それぞれに一長一短があり、どちらを選ぶかという二者択一の問題ではなく、場に応じて使い分けをしたり、同時進行で両者を使いこなしたりしているというのが実情ではないだろうか。 そして児童生徒や一般市民だからこそ、より音楽的に音楽を認知することが可能な「移動ド唱法」による読譜法を基本とすべきだし、それが音楽愛好者の育ちをめざす学習指導上望ましいと思われるのだ。 その件に関しては、日本音楽教育学会の昭和62年の協議において、『固定ド唱法も可とするが、移動ド唱法が望ましい』と表明され、すでに結論づけられているが、意味もなく「高等教育だから」という理由だけで固定ドに固執する向きもあることか ら、再考してみた次第である。 「固定ド唱法」が専門教育の場で行われてきた背景には、想像するに、明治以来、日本の音楽教育(ことに専門的な教育) がピアノの演奏技能習得を中心に行われてきたという事情があるのであろう。 極論すれば、ピアノの演奏について学ぶことが、すべての音楽学習の基礎であり、ピアノが弾けなければ何も始まらないと いうことが暗黙の了解として音楽教育界にあったのだろう。ピアノの演奏では「移動ド唱法」は意味を持たない。「固定ド」でし か演奏しないのだ。そのような事情もあって、いきおい「固定ド唱法」が高等教育におけるソルミゼーションの主役として位置づけられたのであろう。 しかし、ここは(誤解を恐れずに言えば)絶対音感やそれをベースとした「固定ド唱法」偏重主義、崇拝主義から脱するべき ではないかと強く思われてならないのである。 2009/07/29 |
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