開かれた学び |
教育心理学では従来、外発的動機づけ・内発的動機づけという枠組みの中で、外からの賞罰による統制と、知的好奇心や向上心を重視する考え方との問で教育論が戦わされてきた。 しかし、現在の子どもたちは、そのどちらでも学習に向かっていきにくいといぅ悩みがある。大人からの賞賛・叱責、経済的報酬、学歴などを学習に伴わせても効果は少ない。 要するに、それほど「困っていない」状況なのである。 また、いくら「楽しい」、「おもしろい」授業を工夫しても、世の中にはほかにも楽しく、チャレンジングなことがたくさんあり、学校での学習内容に興味を向けてくれない。 そこで、学ぶことの意義をあらためて捉え直すために、「開かれた学び」というのが重要なコンセプトになっていると思われる。 「開かれた」とは何に対して開かれているのかというと、 @学校時代の学習に閉じることなく、自分の将来に対して開かれていること A教科学習に閉じることなく、より広い知的活動に対して開かれていること B学校という場所に閉じることなく、地域や実社会に開かれていること ということになる。 学びを開くことによって、子どもにとって、学ぶことは「ひとごと」 でなく、「なりたい自己」と「なれる自己」を広げるという文脈に位置づけることができる。 「学力低下論争」ちくま書房 2002.8 p.237..238 市川伸一(東京大学教授) |
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ゆとり教育とは | |
「ゆとりの中で生きる力を育む」とは、「せかせかと知識を詰め込む学習」に対して、「じっくりとりくむ学習」を促すことであると、私はつねづね主張してきた。 「生徒たちを勉強から解放して楽にしてあげよう」というのとも、「時間的な余裕をつくってそこで反復学習をさせて定着させよう」というのとも異なる趣旨と考えている。そうした解釈では、「生きる力」を育むことに結びつかない。 新教育課程では、わかりやすい授業と家庭学習を含めた学習支援に力を注ぐ一方、知識・技能を生かす活動の場を設けることが求められる。新しい時代を創る生徒を育てる教育とは、わが国の伝統的な教育の 「転換」や「清算」 によってもたらされるものではなく、そのよさを生かしながら広がっていくものと捉えたい。 「学力低下論争」ちくま書房 2002.8 p.244 市川伸一(東京大学教授) |
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「なりたい自己」と「なれる自己」 | |
「なりたい自己」というのは、自分がこれからの社会でどのような生き方をしたいかという選択肢である。 子どもたちは、日常的な生活を送っているだけでは、社会における仕事、役割、思想、趣味などのごく一部にしか触れることができない。学校で学ぶことによって、それが広がり、視野の中にはいってくる。 一方、「なれる自己」というのは現在の自分の能力の延長として可能となる生き方である。 学校での学習が一見その時に役に立つように見えなくても、それらは確実に「なれる自己」を広げるものであり、いずれ、「なりたい自己」と「なれる自己」の重なったところから自分が選ぶときの可能性を豊かにするものになるのである。 「学力低下論争」ちくま書房 2002.8 p.238 市川伸一(東京大学教授) |
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基礎に降りていく学び | |
〜略〜 そこで、目的的な行動の過程で、必要感をもって基礎・基本を学ぶという「基礎に降りていく学び」を学校でも導入していくことが不可欠になってくる。また、それが可能な時代になったのである。 インターネット等を使えば低いコストで情報が手にはいるが、それらを理解しょうとすれば、国語の力や、理科・社会の知識が必要になる。外国の子どもたちとのコミュニケーションは電子メール等で簡単に行えるようになったが、基礎的な英語力がなければ、伝えたいことも伝えられない。統計的なデータを分析するソフトウェアは充実してきたが、数学的な原理がわからなければ適切な使い方はできない。 しかし、「やりたいこと」があって、その実現のために基礎・基本があるという学びの文脈ができれば、生徒たちは「ひとごと」でも「テストのためしかたなく」でも「はるか遠い将来のため」でもなく、実質的な意義を実感しながら学ぶことができる。 教科の時間でも、「基礎に降りていく学び」がまったくできないわけではないし、そうした興味深い実践も見られる。しかし、従来の教科の時間では、やはり教科内容を系統的に教えていくことが中心とならざるをえない面があった。新教育課程で、自ら興味・関心をもったテーマを追究するという学習を保障する「総合的な学習の時間」が創設されたことは、非常に大きな意味がある。 「学力低下論争」ちくま書房 2002.8 p.240 市川伸一(東京大学教授) |
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みのりある教育 | |
残念ながら、三〇〇人を超すマンモス授業だったので、顔も名前も覚えられなかったその学生のレポートの主旨は、今の教育に必要なことは、 「時間や内容のゆとりをもたせることではなく、生徒にとってやりがいがあり、自分のためになったと思えるような学びをすること」というもので、それを「みのりある教育」と名づけていたのだった。この言葉は、その後もことあるごとに私の頭に浮かんできた。 確かに、「ゆとり」は手段にすぎない。「ゆとりあってみのりなし」の教育では困る。 逆に、いずれ剥落してしまうような知識を一時的に詰め込むだけの学習でも「みのり」はないことになる。 私が、学力低下論争を通じて、「ゆとり教育推進派」にも「学力低下論者」にも、どこか違和感があったのは、結局、「それは、『みのりある教育』といえるだろうか」という引っかかりだった。教科時間と教科内容を減らし、自分のやりたいことをする時間をつくったからといって「みのりある教育」になるわけではない。 逆に、意義もわからないまま、ペーパーテストに備えて知識を積み上げていっても、「みのりある教育」 にはならない。 日々の学習の中で、学んだ知識や技能、学ぶためのスキル、学ぶことの楽しさなどが、自分の中に確実に育っていき、自分の生き方を拡げていると思えるような教育こそ、「みのりある教育」と呼ぶにふさわしい。 「学力低下論争」ちくま書房 2002.8 p.247..248 市川伸一(東京大学教授) |
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役立つ学習 | |
〜略〜 語学の学習でも、昔なら、実際に使う環境に入るのは学習を始めてからずっと後のことでした。 今でしたら、コミュニケーションしながら学ぶということはすごくやりやすくなっています。外国人も昔よりはまわりにたくさんいるし、インターネットを 使えば外国の子どもたちともやりとりできる。そういう環境をつくれば、今やっている勉強が実質的にこういうふうに生かせるんだ、ということが感じら れるわけです。このような場を用意することは、やはり大事なことだと思うんですね。 〜略〜 ただ、すぐに役立たせるだけでなくて、そのために、今自分が学んでいる勉強がもっと長い目で見た時にも大切なことなんだという学習観も子ども にはもってほしい。 そのために、子どもにとっての学習の意義ということを、ここで苅谷さんが批判するような「性急な問いかけ」ではなく、じっくりと問うような姿勢とい うのを子どもにももってほしいと思います。これは、大人自身がそういう経験を示すことも必要でしょうし、自らも学び続ける姿勢を見せてほしいと思います。 大人が、学校での勉強などムダだったと思っている限り、子どもたちはついてこないし、実際、本当に大人がムダだと思っているなら、子どもにやら せるべきではないのです。 『学ぶ意欲の心理学』PHP新書 p.160..162 市川 伸一(東京大学教育学研究科教授) |
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内発論者の主張の理解 | |
デシの『人を伸ばすカ』(誠信書房)という本は日本で翻訳も出ていますし、1970年代から今日に至るまで内発的動機づけ論者としてアメリカで非 常に有名な人です。子どもたちが自律的に、あるいは自己統制的に学ぶということをたいへん重視した立場です。 〜略〜 彼の考え方では、基本的に子ビもは自律的になろうとしている存在だ、それをいかに支援するかというのが教育で一番大切なことだということにな ります。 それに対して、「子どもというのは自己統制がなかなかできないのだから、大人のほうがいろいろ指示を出したり、あるいは賞罰を与えたりして統 制していかなくてはいけない」ということを、大人はすぐ考えたがる。すると、悪循環になってしまうわけですね。大人が統制的に振る舞うから、子ど もは自分で決めようとしなくなる。 それに順応してしまうと、むしろ「大人に決めてほしい」ということまで言うようになります。自ら進んで自己決定しない。人に決めてもらうことを望む ようになる。 それは、自分で責任を取らなくてもいいので、楽な状態と言えるかもしれませんね。 人に決めてもらうので、失敗した時の責任というのは自分にはかかってこないという、ある意味では楽な状態に順応してしまう。すると、自分で決定 するカがつかないですから、ますます大人はあれこれと指示を出すという悪循環になる。 このようなデシの立場が必ずしも教育心理学の全体の立場というわけではないですけれども、世の中では今非常に受けがいい。 〜略〜 ただ、デシとしても、大人が子どもにまったく働きかけをしない、あるいは指示をしない、統制しないのがいいのかというと、けっしてそんなことを言 っているわけではないのです。やはり子どもが社会化されていくという中で、大人が社会での価値というものを子どもに働きかけて内在化させたいと 思っているわけですね。その時にどういうやり方をとるか。大人が統制的に振る舞うか、あるいは子どもが自律的にやろうとすることを促すか、ここで 大きな違いが出てくるだろうというわけです。特に教育場面ではここが大切です。 「学ぶ意欲の心理学」PHP新書 p.153..154 市川伸一(東大教授) |
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基礎に降りていく学び2 | |
ところが、社会人のテニススクールでは、こういうやり方は絶対とりません。 最初からこんなやり方をとったら、みんなやめてしまいますから。 大学でのテニスサークルでもあまりこういうやり方はとらないでしょう。 むしろはじめのうちに一通りの基礎を教えたら、まずゲームを経験してもらう。すると、下手でもそれなりにけっこうテニスっておもしろい。ただ、や ってみると、「もっと強くなりたい」と欲が出てきます。「うまくなるためには練習が必要なんだ」ということを納得した上で基礎練習をやる。基礎をやっ てはまたゲームをやる。すると、基礎の大切さもわかりますし、またそれをやることによって自分がだんだん強くなっていくという実感も味わえる。そ ういうやり方は先ほどの機能的学習環境と似ています。実現したいことがあって、そのために必要感をもって基礎を学ぶ。それを私は基礎に降りて いく学びと呼んでいます。 学校の教科でも、「基礎から積み上げる学び」と「基礎に降りていく学び」ということのバランスが、これまでちょっと悪すぎたのではないか。学習と いえば基礎から積み上げていくものだと思われてきました。実際に大学でやるような学問分野というのがもともと親学問としてあって、基礎から積み 上げていくとそこに到達するようになっている。でも、これはテニスを基礎練習から積み上げていくのと同様で、このやり方で「やる気が出る」「おもし ろい」と思える子どもは、よほど知的好奇心が強いか、あるいは言われたことを従順にやる子どもということになってしまいがちです。学校でも、「何 かやりたいことがあって、そのために基礎に戻る」という学習を取り入れていいのではないか。それは現在の学校でいえば、「総合的学習」ということ になるでしょうし、社会では実際、そういう学び方をしていることが多いのではないかと思うのです。 「学ぶ意欲の心理学」PHP新書 p.219..220 市川伸一(東大教授) |
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