音楽教育における道具主義
音楽教育によって「生活を明るくし豊かにする態度を育てる」など音楽以外の目的の為に音楽を利用する教育のありかた。
PP.68
音楽教育本来の効果とこの随伴的効用とが、よく混同されるだけでなく、それが真の音楽教育であるかのごとき錯覚が生じたのである。
PP.68
〜このような音楽の利用価値は、様々な方面へ転用されうるが、その主なものとして、徳性の涵養と情操陶冶、リクレーションと余暇活動の手段、
知的発達と健康増進のため、その他、儀式や軍隊のためなどに音楽を利用することはみな、道具主義といえよう。
PP.68
日本音楽教育学会第5号「音楽的成長から人間的成長へ」
美田 節子
徳性の涵養と情操の陶冶
この二つのことを目的とする音楽教育は、特に強く日本の音楽教育のすべてに影響を与えてきたものである。
PP.68
〜この場合、情操の陶冶とは、現在の心理学でいう情操教育とは異なり、徳性と結びついた心情、たとえば花鳥風月をいつくしむ心、やさしく優雅
な気持を持ち道徳的にすぐれた人柄を育てるというような意味に解した方がよさそうである。
PP.69
〜以上の教育目的は、副産物的なものとはいえ、いずれも、それ自体としては正しいものであり、それを拒否する理由は何もない。
しかし、それが本当の音楽教育の目的かといえば、そうではないし、また、それを直接の目的とする道徳教育や生活訓練、あるいはしつけなどによる方が、
はるかに有効なのである。
PP.69
日本音楽教育学会第5号「音楽的成長から人間的成長へ」
美田 節子
道具主義における問題
1、音楽によるよりは、そのものを直接の目的とする教科による方が有効であるのに、なぜ音楽によらなければならないか。
2、随伴的効果が、音楽教育本来の目的とすり替わった場合、音楽の影が薄くなり、その立場があいまいにになるということ。
PP.70
音楽的な面からいえば、低い水準で満足するような傾向が生じ、ひいては音楽的成果は二次的なものになってしまう。
ということは、子どもの音楽的能力についての関心が薄れるということである。
PP.70
○音楽が手段となる道具主義
どんなにすばらしいものであっても音楽教育で意図されたものと同一であっても音楽が手段として用いられた点に変わりがない。
この点が、本当の音楽教育であるか、そうでないかの決め手になる。
PP.71
日本音楽教育学会第5号「音楽的成長から人間的成長へ」
美田 節子
「学級崩壊」や「荒れ」に対する対策が「戦術」の問題であるとすれば、二十一世紀を展望した教育の在り方は「戦略」の問題である。
今回の教育課程の改定の眼目は、いうまでもなく総合学習の時間の創設にある。
総合学習の時間についてはすでに中教審第一次答申で「横断的・総合的な学習の推進」として提言され、教課審答申ではこれに「児童・生徒の興味・関心に基づく課題、地域や学校の特色に応じた課題など」が加えられ、新学習指導要領にもほぼこれと同じ内容が盛り込まれている。総合学習の時間はテーマの設定に始まって、その名称まで各学校に委ねられている。学校裁量を生かすには恰好の舞台である。それだけにテーマをどう設定するか、時間割にどう組み込むか、各学校の戸惑いは大きい。学校現場にとってはまさにその力量を問われているのである。
とりわけ重要なのはテーマの設定である。中教審答申以来、いくつかのテーマが例示されてきたこともあり、先進校の実践にはそのうちの一つを選んでという体のものが多い。学習指導要領は「児童・生徒の興味・関心に基づく課題、地域や学校の特色に応じた課題など」を含め、学校の実能に応じた学習活動に期待している。例示されたものの中から学校としてどれかを選ぶというより、児童・生徒がどういうことに関心や興味を持っているかというところから出発するのが望ましい。加えて、テーマはどのようなものにせよ、まずは地域や学校の実態を踏まえて考えるという姿勢を貫くことだ。教師の期待や願いが先行して、児童・生徒が受け身に終始するようでは、せっかくの総合学習の時間もかつての特設「学校裁量時間」の二の舞になりかねない。
移行措置を控えて、いわゆる先進校、とりわけ研究指定校には全国から参観者が詰めかけ、受け入れに大わらわという話をよく耳にする。ただし、こうした参観や視察がどれほど自校の実践に役立つかは正直なところ疑問である。とりわけ総合学習の時間は、教科を越えて学校の教育計画全体に関わることが多いので、数時間の授業を見ただけでその極意を会得できるといったものではない。
とはいえ、「百聞は一見に如かず」もまた事実である。公開授業に得るところは少ないにしろ、集まった教師がどういうところに関心を持ち、さしあたりどの辺りから手をつけようとしているかを知るだけでも貴重な情報交換の場になろう。総合学習の時間は、教科書を使用しないこともあってか、新学習指導要領の全面実施に先立って、移行措置の始まる平成十二年度から試行的な実践が始まる。そうなると準備期間は十一年度きりである。何はともあれ、先進校の実態を見てからという気持ちもわかる。
特定の先進校の実践をそのまま模倣したり、理論書に盲従してあわてて自校にも取り入れようなどとはしないことだ。これまでの学校では、ユニークな実践が世間の関心を集めればほとんど必ずといってよいほどそれに追随する学校が続出し、とどのつまりはどの学校もさして代わり映えしない横並びに終わり、そのうちには流行も下火になるというのが通例だった。これでは教育改革の名に値しないし、学校再生の道にも通じかねる。
教育改革に関連して「教育ビッグバン」ということばをよく耳にする。ビッグバンはもともとアメリカの物理学者G・ガモフが唱えた、宇笛誕生の時点の大爆発で、それ以来宇宙は膨脹し続けているという。いずれにせよ宇宙のどこかで起きた自然現象で人為的な教育改革に援用するには余りふさわしくない。政府なり、文部省なりが学校現場からかなり遠いところで起こした改革の蜂火が、ようやく学校現場の足下に近付き、学校現場はその対応に追われているという印象を免れがたいのだ。実際これまでの教育改革の多くはそうした回路を経て学校現場に及んできた。
本来、教育改革のビッグバンを起こすのは学校現場でなくてはならない。学校現場から起きた改革の蜂火が、やがて教育ビッグバンにつながるとき、日本の教育は本当の変革期を迎え、学校再生の道も大きく開けるのである。学校の自主・自律の声がその契機となることを期待する。
下村哲夫(早稲田大学教授,元筑波大学教授)
教育展望1999,7/8月合併号
pp.12..13
体験学習法とは、何らかの体験をすれば、そのことだけで、学習したとするものではない。
今、ここでの体験によっての気づきやこだわり、さらには、ともに体験して、気づいたこと、感じたことをわかちあい、その解釈から、
学びを深めて、次の行動へと生かしていく循環過程として、構造化される教育方法のことを指すのである。
中野民夫
『ワークショップ〜新しい学びと創造の場〜』 pp.138
岩波新書
私は、日本人の学生たちに接した経験から、一つの重大な結論に達した。それは、日本人、とくに若い人が、人間的な、エモーショナル(感性的)なインセンティブに対して敏感に反応するということだ。もしこのようなインセンティブが与えられれば、日本の教育システムは世界最高のものになる可能性は大きい。
「なぜ日本の教育は変わらないのですか」
東洋経済新報社
2003.9
グレゴリー・クラーク(多摩大学名誉学長)
もう一つは、今、我が国の学校教育において児童生徒は「何のために学ぶのか」を学校も保護者も社会も改めて問い直す必要があるということである。
児童生徒が学校で学ぶ意義は、一人一人が豊かに生きていくためという個人の利益の視点と、社会により良く貢献しながら生きていく、あるいは社会を
より良いものにするための力を培うといった公の視点とがあるはずだが、現状はこのいずれでもない。
学校間序列や受験競争の存在を前提に、如何にこれに対処するかのための「学び」にさせられているように思えてならないのである。
我が国の学校教育を「何のために学ぶのか」の原点に立ち返らせなければならない、ということであり、例えば公の視点について理想を言えば、今や国益
を越えて世界や地球全体のためにというグローバルな視点を一層重視していくべきときだとさえ思うのである。
「世界史」を学ぶのは、国際社会の中で一人一人が世界の人々と協調してより豊かに生きていくためなのであって、受験科目にあるからではないはずである。
しかし現状は、学校で学ぶ意義は高い点数を取るためといった錯覚、小さな頃から受験目当ての点数獲得競争にとらわれ学校間序列の存在にいささかの
疑問も抱かないような教育観、「受験学力」を効率的につけるかつけないかによる近視眼的な学校批判、教科の意義が受験という視点に偏って評価される
ような風潮、こうしたものに覆われているように思えてならないのである。こんな現状は何としても打破されなければならない。
そしてそのためには、「何のために学ぶのか」、今、この視点から指導内容や指導の在り方を分析考察することは、中央教育審議会の場のみならず、
各学校にとっても必須の課題だと思う。
「何のために学ぶのか」
雑誌「教育展望」2006/1,2月合併号 巻頭言
辻村哲夫(東京国立近代美術館長)
学校は工場ではない
教育の効果というのは、卒業時点において取得された単位数や成績や資格や専門知識や技能だけではありません。
高等教育で学んだもっとも重要な技法であるはずのコミュニケーション能力や問題解決能力は総合的すぎて数値化できない。
識見や判断力や感受性や趣味といったものは、いったいいつどんなふうにして身についたのか、血肉化してしまうともう本人にだってわからない。
ましてや、学校で身につけるもののうちもっとも重要な「学ぶ能力」は、「能力を向上させる能力」というメタ能力です。いうなれば「ものさしを作り出す能力」です。
「ものさしを作り出す力」をできあいの「ものさし」で計測できるはずがない。
教育のアウトカムは数値的に評価できない。それは当たり前のことなんです。
それを数値化できるはずだし、数値化しなければならないと言い立てる人がいるのは、学校を工場に見立て、卒業生を製品に見立てるという市場主義的な教育観の
危うさを誰も疑っていないからです。
内田樹(京都女子大教授)
「下流志向」講談社
p.159
経済合理性というのはその経済活動に付随するもろもろの人間的価値を排除してしまう。だからすごくすっきりしている。
でも、視野から排除されたせいで致命的なダメージを受けたものって、たくさんあると思うんです。教育もそうだし、労働もそうだし、育児もそうだと思います。
児童虐待の事例がだんだん増えてきていますけれど、これは育児を等価交換で考える習慣の必然の帰結のように私には思えます。
育児ってすごく時間のかかる仕事でしょう。でも、今の若いお母さんって育児をロングスパンで考えることができない。すごく短いスパンで考えている。
それはおそらく育児をビジネスの用語で考えているからだと思うんです。
自分の子どもは自分が作り出した「製品」であり、親の「成果」は「製品」にどんな付加価値を付けたかによって査定されると考えている。
その成果が評価されると、親は育児の「成功」というかたちで社会的な自己実現を果たした、と考える。メーカーが工場から送り出した製品の売れ行きや評価に
一喜一憂するのと同じメンタリティです。
最初は排便のしっけができるとか、言葉がしゃべれるとか、歩けるとかいうかたちで、目に見えるかたちでの子どもの能力の開発に目がゆく。
そのあとは英語ができるとか、ピアノができるとか、有名校に入学したとか、やはり目に見えるかたちで子どもに付加価値を付けていこうとする。
子どもに付加された価値を親である自分自身の「事業」の成果として可視的、外形的に誇示しようとする限り、必ずそういうことになります。
学歴とか資格とかいう、外形的に隣人に認識できるような「目に見える成果」以外のものは育児の付加価値としてはカウントされない。
本来育児って、すごく時間のかかる仕事であって、自分の育児が成功したか、失敗したかなんてことは、子どもを持つとわかるけれども、20何年たってもよくわからない
ものでしょう。よくわからないのが当たり前だと思うんです。
育児労働の成果をただちに、それこそ四半期とか1、2年で目に見えるかたちで見せなさいとプレッシャーをかけられても困る。そういうスパンじや測定できないものなんだから。
でも、世の親たちを見ていると、目に見えるかたちで、数値化できるかたちで、定量的に評価できるかたちで、育児の成果を出すことをせかされている。
少なくとも、親自身はそういうプレッシャーを強く感じている。
内田樹(京都女子大教授)
「下流志向」講談社
p.166..167
グライダー人間と飛行機人間
いまの社会は、つよい学校信仰ともいうべきものをもっている。全国の中学生の94パーセントまでが高校へ進学している。
高校くらい出ておかなければ……と言う。
ところで、学校の生徒は、先生と教科書にひっばられて勉強する。自学自習ということばこそあるけれども、独力で知識を
得るのではない。いわばグライダーのようなものだ。自力では飛び上がることはできない。
グライダーと飛行機は遠くからみると、似ている。空を飛ぶのも同じで、グライダーが音もなく優雅に滑空しているさまは、
飛行機よりもむしろ美しいくらいだ。ただ、悲しいかな、自力で飛ぶことができない。
学校はグライダー人間の訓練所である。飛行機人間はつくらない。
グライダーの練習に、エンジンのついた飛行機などがまじっていては迷惑する。危険だ。
学校では、ひっばられるままに、どこへでもついて行く従順さが尊重される。勝手に飛び上がったりするのは規律違反。
たちまちチェックされる。やがてそれぞれにグライダーらしくなって卒業する。
優等生はグライダーとして優秀なのである。飛べそうではないか、ひとつ飛んでみろ、などと言われても困る。指導するもの
があってのグライダーである。
グライダーとしては一流である学生が、卒業間際になって論文を書くことになる。
これはこれまでの勉強といささか勝手が違う。何でも自由に自分の好きなことを書いてみよ、といのが論文である。
グライダーは途方にくれる。突如としてこれまでとまるで違ったことを要求されても、できるわけがない。
グライダーとして優秀な学生ほどあわてる。
そういう学生が教師のところへ ″相談″ にくる。ろくに自分の考えもなしにやってきたってしかたがないではないか。
教師に手とり足とりしてもらって書いても論文にはならない。
そんなことを言って突っぱねる教師がいようものなら、グライダー学生は、あの先生はろくに指導もしてくれない、と口をとがらして
その非を鳴らすのである。
そして面倒見のいい先生のところへかけ込み、あれを読め、これを見よと入れ知恵してもらい、めでたくグライダー論文を作成する。
卒業論文はそういうのが大部分と言っても過言ではあるまい。
いわゆる成績のいい学生ほど、この論文にてこずるようだ。
言われた通りのことをするのは得意だが、自分で考えてテーマをもてと言われるのは苦手である。
長年のグライダー訓練ではいつもかならず曳いてくれるものがある。
それになれると、自力飛行の力を失ってしまうのかもしれない。
思考の整理学(ちくま文庫)1986 p.11..12
外山滋比古