「新しい教育課題」に共通するのは、それが答えのない問題を考える学習になるという
点である。扱う内容が新しいのではなく、答えのない問題を考えるという学びのあり方、
教師側から見れば授業づくりの原理そのものが新しいのである。当然、そこで想定される
学力論も、これまでとはいくぶんなりとも違ったものになってくるであろう。
もっとも、答えのない問題を考えるという学びのあり方自体は何ら新しいものではない。
未だ答えが見出されてない問題を考えるという意味では、すべての学問や文化創造の現場
がそのような学びなり追究のあり方をとってきた。また、命や性のような、そもそも究極
的な答えの存在しない問題をも、人は考え続けてきた。
たしかに、万人に通用する、あるいは客観的に正しい「答え」は存在しない。
しかし、だからこそ一人ひとりが自分の生き方のよりどころとすべき、自分自身より納得
のいく「応え」を求めて思考し続けてきたのではないか。
人はみんな、そのような切実な問題に出会うたびに、経験と知識のすべてを動員して
ああでもないこうでもないと考えを巡らし、可能な選択肢の中から目下のところ自らが
もっとも納得のいく解決策を判断しては、その時々を生き抜いてきたのである。
目下のところという表現が示すように、状況の変化や新たな事実との出会いによって、
応えはより納得のいくものへと更新されていってしかるべきであろう。もちろん、優柔不
断にころころ自身の立場を変えるのは望ましくない、
というより納得という概念から考えて不自然だが、さんざん考えたあげく自身の位置を
移動することは十分にあり得ることであり、それは多くの場合、深化や拡充を意味する。
「答え」から「応え」へ
奈須正裕(国立教育研究所主任研究官)
教育展望 1999.6月号 p.36..
「学び手のイニシャチブ」
つまり自発性や積極性ということばで、あまりに
しばしば、自発的に自分のイニシアチヴを放棄し
積極的に教師のイニシアチヴを受容し、文句を言
わずにその線にそって努力すること、つまりパラ
ドキシカルな言い方ながら「積極的な受容性」が
意味されていることが多い。
岩波講座 教育の方法1「学ぶことと教えること」
東 洋
岩波書店
競争が避けられないものであり、競争がより生産的なものであり、競争がより楽しいものであり、
競争が人格を形成してくれるものである、という四つの神話は基本的に誤っている。
アルフィ・コーン(山本啓・真水康樹訳)「競争社会をこえて」
法政大学出版会 p.16
大体誰でも「うまくいくようにしょう」「しっかりやりとげよう」
という意欲を持っている。ところが課題の性質により、また人によって、
そういう意欲がおころうとするや否や、ほとんど反射的に「どうせだめさ」
「だいそれた望みを持つとみじめになるだけだ」という思いが頭をもたげ
始める。いわば、意欲を持つこと自体が、意欲を殺す毒素分泌の引き金に
なるようになってしまっているのである。
意欲の自家中毒といえるかもしれない。
「意欲がない」と言われる子どもや学生のかなりの部分が、この意欲の
自家中毒にかかっているのではないかと思う。
そのやっかいな症状として、意欲を奮い起こしてやろうとしてさそったり
はげましたりすればするほど、かえってしりごみしてとじこもってしまう。
なまじほめても逆効果になる。
それよりもまず、「意欲を殺す毒素」への抵抗力をつけなければならない。
それにはどうしたらよいのだろうか。
結論的には「どうせだめ」ではないのだということを実感できる状況をつ
くることである。言って聞かせるのではなく、実感してもらうので、急ぎ
すぎは禁物である。
まず自分自身について安心してもらわなければならない。
自分が「このままで結構捨てた者ではないのだ」と得心してもらわなければ
ならない。
教育展望 1991,12月号
東 洋(白百合女子大学教授)
P.3
〜中 略〜
でありますが、曲者はこの「よりよく」という言葉でありまして、よりよく
というのは価値に関係した方向性であります。私にとってよりよいのが、ほか
の人にとってよりよいかということはなかなかわからないことですが、意欲の
向かう目標としての価値にはいろいろあるわけであります。そのなかで幾つか
特に教育と関係するのではないかと思って取り上げてみました。
さまざまな価値を志向する意欲として、一応、有能さ、正しさ、優しさ、楽
しさなどを考えてみました。このうちで従来の学校教育は特に有能さにスポット
をあてて来たと思います。よくできる、速い、上手、知っている、賢いとか、
そういう有能さにストレスを置いてきたと思います。しかし「豊かな学力」と
あえて言う場合、有能さというだけでは十分ではないと思います。ほかの幾つか
の価値が同様に重要になると思います。
東 洋(白百合女子大教授・東大名誉教授)
教育展望 '95 12月号 P.25
第24回教育展望セミナー記念講演より
【学習意欲】
〜中 略〜
以上の調査やコメントは、今日の“偏差知的学力”獲得競争に
焦点づけられた「学習意欲」の病理の本質をついている。
すなわち、平準化された能力の序列化(輪切り)のなかでの“順位”争い
という学習過程で、子どもたちは学習すればするほど“自己自身の現実的世界
との出合い”(学習に対する動機や意義)の場が狭められ、真当な“学習意欲”
(学習対象への主体的な構え)を減退させていっているのである。
事実、他の調査によれば、学年が進むにつれて、また「受験」を終えてしまう
とよりいっそう「授業離れ・教科書離れ」が進行し、そこではむしろ
「学力無視ないし学力拒否的状況」がみられるという(駒林邦男「子どもに
とって学校とは何か」『岩手大学研究年報』第50巻・2号)。
つまり、彼らの“学習”への動機・努力を支えているものといえば、“合格”と
他者との競争という“外的”目的(学力の交換価値)なのだから、ひとたび
その価値(合格)を手にすれば、身につけた“学力”は直ちに剥落さしてしまう
性格のものとなっている。したがってまた、“ワガモノ”としての学力(本来的
価値)についての不安・不信は消えることはない。まして、他者との共感や連帯心
などは育つはずはない。
教育展望 '94.3月号
P.5..6
「主体的な学習活動の組織化」
今野 喜清(早稲田大学教授)
学級も全体社会の矛盾を反映した一つの社会集団として一層強く認識する必要がある。
「私」への傾斜という社会全般の「私事化」傾向を反映して、子どももまた「私事化」傾向を強めているのが現状であろう。
「いじめ」の多発や登校拒否の増加も、人との「つながり」が表面的で稀薄化し、自己中心的な「私」への傾斜が増幅させているように思われる。
いうまでもなく公教育としての学校は、「公」への貢献と「私」の充実という二つのものをバランスよく子どもに内面化していく使命を負っているもの
と考えられる。
そのような芽を育てていくことの前提として、学級集団を、異質なものを受け入れ、
認め合い、助け合い、追求し合い、支え合う「学級共同体」として創り変えていく必要がある。
そのためには、次のような「開かれた価値意識」の内面化が重要となる。
@知識そのものに対して開かれた意欲・態度。 | 知識の内容それ自体に興味をいだき、教材等を媒介として、発展的・探求的な意欲をもち続けることができる。 (探求的価値意識の内面化) |
A対人関係・仲間集団に対して開かれた意欲・態度。 | たとえば、授業中に積極的に発言したり、協力して学習活動を進めることによって、自己の成長だけでなく、他者の成長にも貢献しようとする意欲・態度。 (協同的価値意識の内面化) |
B社会生活や学校生活のような集団や組織を正常に維持したり、改善したり、創造することに対して開かれた意欲・態度。 | (貢献的価値意識の内面化) |
C自分自身の成長のために開かれた意欲・態度。 | 学習することによって少しでも自己を成長させることに役立てようとする意欲・態度。 (自己啓発的価値意識の内面化) |
このような課題を小学生という発達段階に即して具体化し実践していくことはそう
たやすいことではないが、そのような豊かな心と主体性の芽を少しずつ着実に育てて
いくことが求められているといえよう。
名越清家(福井大教授)
「変容する社会における子どもと学校教育の課題」
雑誌「小学校時報2月号」
1997. P7..8
今、学校には「内に開く」ことと「外に開く」ことが求められている。
まず、「内に向かって開く」ことから考えていくと、それをやってい
けば当然外に広げなければダメだということが出てくるはずである。
原理的に内に開くということを「四つのフリー」で考えてみたい。
第一にはゴールフリーであり、目標からの自由ということである。
学びのレベルはいろいろあるが、教師が目標設定にこだわらずに「何を
学んでいるのか」子どもを多面的に見ていくことが大切である。
第二には人がフリーであり、これまでは○○学級の生徒と固定して
子どもをとらえていたが、複数の教師がチームになって子どもを多面
的に捉え、しかも観点がそれぞれの考え方を持って見ていくことである。
第三には時間のフリーであり、単位時間を弾力的に運用していくこ
とが必要である。休み時間も子どもたちの活動の時間であり、そこで
何かを学んでいることを認識しなければならない。
第四にはスペースフリーであり、教室だけに限定せずに、もっと広
げて空間をフリーにしたい。子どもがそこで何を学んでいるかを考え
ていくためにスペースもフリーでありたい。
この四つのフリーが「内に開く」ことで重要である。
新井郁男(上越教育大学教授)
教育展望 1998.12月号 p.13
【モデルになれない親や教師】
子どもは、自分が直接やってみたり、やり方を教えられなくても、
モデル(親や教師など)の様子をみているだけでやり方を身につける
ことがある。こうした学習の型をモデリング(modeling)という。
しつけや家庭教育あるいは子育てというと、ほめたり、叱ったりと
いった親からの一方的な働きかけだけを連想しやすいようである。
しかし、それは一側面であって、すべてではない。
親の日常生活のあり方や生き方が子どもに伝わるという側面もある。
忘れられやすいが、この側面のはたす役割は大きい。
子どもは、親や教師の生き方をよく観察し、それを取り込んで成長
していくのである。
したがって、好むと好まざるとにかかわらず、子どもにとって親や
教師はモデルなのである。
だからこそ、子の言動は、親や教師のそれに似るといわれるのである。
ただし、よいところだけを取り込むのではなく、悪いところも一緒に
取り込むことを忘れてはならない。
先にも述べたように、生活技術については、子どもに教える立場に
ある観、教師といった大人が、きちんとできない状況にある。
したがって、まず大人が生活技術の習熟につとめる必要がある。
そして、子どもに教えられる大人になるだけでなく、彼らのモデルに
なることである。正しい意味で子どものモデルになるということは、
生活技術の問題にかぎらず、子育てすべてに共通しているといえよう。
換言すれば、現代は、いろいろな面で大人が正しい意味で子どもの
モデルとなり得ているかどうか、問われている時代であるともいえよ
う。
「生活技術の実態と復活の方途」
谷田貝公昭(目白大学教授)
教育展望 1998.12月号 p.46
J.デューイ
『学ぶ』とは
既知の世界から未知の世界への「旅」
○教科書という地図の中だけで旅をしたつもりにさせている。
○「旅」をさせると言いながら「地図」である知識も与えずに
未知の世界に向かわせること。
↓
「旅」ではなく「さすらい」
「地図」を片手に「旅」をして自らの発見を「地図」の上に
記しながら、自らの変容をもたらす「学び=旅」を遂行
すること
↓
『学び取り』
人の大脳は同じかたちをした左右一対から成り立っているが、右と左でその機能に遠いがあることが明らかになってきた。
右半球が、音感的、形象的、知覚的、空間的な領域を、左半球が言語的、論理的、分析的、演算的な領域を主としてつかきどる。それゆえ、
右半球を音楽脳、左半球を言語脳とよぶ。
大切なことは、右半球の脳の働きを促すために、幼少年期が大切なのである。絶対音感などがこの領域である。
囲碁や将棋などもそのようである。プロの棋士たちは必ずと言えるほど、幼少期に深くかかわっている。彼らは囲碁や将棋を論理で学習するので
はなく、感性で身に付けるのである。石や駒の姿、形を論理としてではなく、美として快としてインプットするのである。「そんな汚い手はさせ
ない」とか、「美しい石の姿」などの表現が生きているのだ。
芸事の世界でも同じことがいえよう。職人の世界でもそうである。
「りくつではなく、身体でおぼえる」というのがそれである。
全て右半球思考をさしている。かといって、左半球思考を軽視しているのでは決してない。
「<沈黙のことば>を蔵している右半球からの空間言語が、論理脳である左半球の問いかけに答えて、時間言語の流れの堰を開いたときに独創は
生まれると考えてよい」(須田勇「第二の知る」)。つまり左半球の論理的な問いかけ(課題設定とか間題意識)に対し、右半球の言葉にならない働き、
しいて言えば「ひらめき」などによって、それに答え、それをまた左半球の検証という作業が行われなくてはならない。右と左の調和的なバランス
のもとに独創が生まれるのである。
須田氏は「美として、快として、動としての表現しか知らぬ沈黙の右半球のもつ知こそ、人類の帰趨を決める(第二の知)である」というのである。
私はこれをうけて「感性の知」と言っている。
「論理の知」から「感性の知」への移行が今日の教育に問われている課題である。
別の表現をすれば、「知る」から「分かる」への教育といってもよい。
学校と言うところは、教師と子どもがいて、「教え、教わる」の営みが中心である。しかも主役は当然教師である。
これに対して、子どもが主役となり「学ぶ」の活動が中心とならねばならないのである。
「知る」の岸から「学ぶ」の岸に移るには、その間にある「体験の川」を泳ぎわたらねばならない。
人は「為すことによって学ぶ(「Learning
by Doing:J.DEWEY」)のであり、体験から「分かる」にいたるのである。
やさしさとかいたわりとか、そして差別しない心など、教えたり、教わったりするものではない。
子どものうちに、内向的価値認識が、主体的・自律的に形成されねばならない。私はこれを「内なるモノサシ」をつくると言っている。
「知る」から「分かる」にいたってこそ「内なるモノサシ」ができるのである。そのモノサシに従う事が「真のカ」であり、「生きる力」となるのである。
その力こそが差別を識別する力となり、差別を許さぬ行動力となるのである。
心の教育は教えられるものではない。「人権教育のための国連10年」行動計画においても、人権教育を単に知識の習得ではなく、スキルと態度の形成
が重要であるとされているのもこのことをさしている。
神戸大学教授 鈴木 正幸
雑誌「学校運営」No.447
1998.10月号 P.10..11
本来はそうではなく、「学習」というものは、もともとが他者との協同的いとなみであり、
互いに学び合いつつ、なんらかの共同体の実践に参加することなのだという考え方が最近広
がってきている。このように再定義された「学習」を、旧来の学習観と区別するために、あ
えて「学び」という言葉が使われるようになってきた。
このような授業観や学習観の変化は、「学校文化」の特殊性を浮き彫りにする。
学校での学習を、学校外での日常生活での学び、あるいは社会や自然との直接的な関わり
の中での学びと比較したとき、学校化された学習の歪みが鮮明に浮かび上がってくる。
また一方、授業観や学習観の変化を認めると、具体的な授業実践も、学校を「非・学校化」
する実践へと変化してくる。そこでの子どもたちは、やっと、自分自身をとりもどし、自分
から探求の触手をのばしはじめる。また、授業の中で他の子どもたちへも心をくばり、互い
の学び合いが生まれる。そのような中で、なによりも教師自身が多くを「学ぶ」のである。
このような「学び」を中心とした授業観、学習観は、ともすると、学校での「教え」主義
に対する一方的批判として受け取られかねない。教師は授業で知識を「教え」てほいけない、
授業を教師の意図でリードしてはいけないという消極論に陥る。それが最近のカリキュラム
のスリム化運動と合い呼応して、子どもを「知」の世界に導くこと自体を教師がとまどい、
おそれる事態を引き起こしてしまう。確かに従来の教科内容を「子どもの学びを育てる」と
いう観点から問い直すことは大いに必要であるが、そのことは、教えるべき内容を削って、
いわゆる「基礎・基本」というホネとカワだけにしてしまうことを意味してはいない。
むしろ、知の探求のおもしろさを味わい、さまざまな知の領域を越境し、関係づけ、新しい
知を創出して行く「知の探求者」を育てることを、教師は積極的に「買って出る」存在でなけ
ればならないだろう。
一九九八年七月
編集委員
岩波講座3「現代の教育」『授業と学習の転換』
1998.8.26 はじめに
『人の心などわかるはずない』
臨床心理学などということを専門にしていると、他人の心が
すぐわかるのではないか、とよく言われる。私に会うとすぐに
心の中のことをみすかされそうで怖い、とまで言う人もある。
確かに私は臨床心理学の専門家であるし、人の心ということを
相手にして生きてきた人間である。しかし、実のところは、一般
の予想とは反対に、私は人の心などわかるはずがないと思って
いるのである。
この点をもっと強調したいときは、一般の人は人の心がすぐ
わかると思っておられるが、人の心がいかにわからないかという
ことを、確信をもって知っているところが、専門家の特徴である、
などと言ったりする。一般の人は、ちょっと他人の顔つきを見る
だけで、「悪い人」とか「やさしそうな人」とわかったように
思う。これに対して、専門家はどれほどやさしそうに見える人
でも、ひょっとすると恐ろしいところがあるかも知れない、と
思う。あるいは、怖い顔つきの人に会っても、あんがいやさしい
人かも知れない、と思っている。要するに、簡単に判断を下さず、
人の心というものはどんな動きをするのか、わかるはずがないと
いう態度で他人に接しているのである。
「こころの処方箋」 新潮社 1992.pp.8..9
河合隼雄(かわいはやお)
国際日本文化研究センター教授
京都大学名誉教授(臨床心理学)
先に、最近の学習論は“社会的参加”を強調する、と述べた。
すなわち、“社会的参加”としての学習観は、文化遺産や知識についての理解は社会的交わり(共同)を媒介にして、
また相互の働きかけ(協同)を通して深化されて、社会的意義(役に立つこと)を発現さすと主張する。
つまり知識の習得も、たんなる私的所有としてではなく、他者と交換し合い、確かめ合い、共感し合うことによっ
て、よりホンモノの知力として内面化(アイデンティティの確立)するのである。
というのも、本来知識の価値(真理)はなにびとかの私有物ではなく、本質的に人問的連帯と課題解決を求めるため
の社会的共有物在のである。こうした意味で、末知なるものを求めて拓く「参加・共同」的学習集団は、学習主体とし
ての子どもを真に人間として自立さす基盤なのである。
以上の点に加え、子どもの“自立”に関連する“集団”のもつ意義について、さらに以下の点を付言しておこう。
当然のことであるが、“人間的自立”は環境的世界から完全に切断された“孤立”を意味するものではない。
けれどもまた、人問的自立には“孤立”と“依存”(社会性)のモチーフを内在さすことも認めなければならない。
人間は自ら好んで孤独を求めることもあるし、時には孤独に耐えねばならないこともある。
そしてまた、人間は“幼な子”の時からさえ、ヒトを求め、モノと遊ぶことを欲する。
というように、“自立”とは、孤立を求める“求心性”と依存を求める“遠心性”の二つの異なった方向に働くベク
トルの中で、“均衡”的に自己を位置づけることを意味する。
このとき、人間がもつ“依存性”は弱さだけを意味するものではなく、むしろ人間的自立を求めてのエネルギー(意欲)
を意味することはいうまでもない。
だから、学習集団は人間的自立へのエネルギーをより高めるものとして機能されなければならない。
と同時にまた、そこでの“人間関係”は個人にとって“受容的”(共感と愛をもつこと)でなければならないのだ。
教育環境をソフト化・弾力化する意味での“潜在的カリキュラム”が重視されねばならないことの意義も、この点にある。
今野喜清(早稲田大学教授)
「学校知の変革と新教育課程編成の課題」
教育展望 '97 1,2月号 P.21..23
「学習に於ける個と個性」
個といい個性といい、それが学習においてどれだけ尊重されているとしても、課題学習の状況下にある限り、ただ課題の達成という目的の為に尊重される
ことを避けえない。個は単に一定の目的の為の有力な手段となることが期待されるにすぎず、個性もせいぜい有用な特性として成熟することが期待されるに
すぎない。
PP.90
それだけでなく(個も個性も)自己の目的を自己自身で「善さ」として作り出す、その意味でのいわゆる自己目的として認められ尊重されることがなければ
ならないのである。
岩波講座 教育の方法1「学ぶことと教えること」
村井 実
岩波書店 PP.91
○人間は「善さ」を志向するエロス的存在
(ソクラテス)
○人間は「善さへの意欲・知力・態度」を備えている
(ペスタロッチ)
岩波講座 教育の方法1「学ぶことと教えること」
村井 実
岩波書店
PP.90
「学習に於ける個と個性」
それは学習の考え方を根本的に変えるということ。
人間が課題について学習するという考え方、いわゆる
課題学習の考え方をあらためて、基本的に、ここに
志向学習とよばれた考え方に立つということである。
岩波講座 教育の方法1「学ぶことと教えること」
村井 実
岩波書店
PP.87
ある人は、支度とは「耐えること」と言っている。じっと腕組みしていれば子どもが主体的になれば、いつまで耐えていてもよい。
その点では一面的な表現であるが、いわんとする点は別にある。つまり、「指示・命令」をすれば一言で済むことをそれを言わず、
子ども自身が気づくようにするには、がまんしなければならないとの意味である。
「こうしなさい」と言わずに、「こうすればいいんだな」と子ども自身が気づき、ふるまうようにするには、教師は何をどうすればいいかである。
ここのところが、まだ十分に明らかにされていない。とはいえ、全く明らかにされていないわけでもない。今のところ、大まかではあるが、
次の四点が支援の中味として注目されている。
@助言−子どもの行動を促すように助言をしたり、ヒントや手がかりを与える。
例えば、「あそこのグループを見てきてごらん」と誘導する。
ただし、「あそこのグループで、これこれを見てきてごらん」と言えば指示になる。
A励まし−肯定的な評価である。
「ここまでやったか、あと一息だな」と学習を前向きに後押ししていく。
「まだ、これだけしかやれないのか」という否定的評価は、行動を抑圧してしまう。
B場づくり−子どもが自ら活動する時間、空間、学習情報、のぴのびと活動できる雰囲気といった主体的に学習できる
「学習環境づくり」に意を用いる。
C開かれた発間−子どもが思考や活動をめぐらすように促す教師の働きかけを活発にする。
児島邦宏(東京学芸大教授、〃附属大泉小校長)
教育展望 '95.9月号
P.12..13
主体的な学習を展開するには、教材の質が問われてくる。特に、学習材ともいわれるように,学ぶ側からみて学ぶに値する魅力的な教材であるか
どうかが重視される。
さらに、学習課題を子どものものとし、「知りたい、やってみたい」という気にさせない限り、子ども自らの学習は出発できない。
その点で授業の過程では「導入」がすこぶる重要な意味をもつ。
このように、諸々の要件が必要とされる中で、もう一つ重要なのは、前述した「子どもに活動や思考を促す教師の問いかけ」である。
子ども自身が答えを見つけるよう仕向ける問いかけで、「開かれた発問」(open
question)と言われる。
その逆は「閉じた発問」(closed question)で、これは既習のことを想起したり、書かれていることをまとめたり、経験を出しあったりといった
活動である。
例えば、「朝顔を育てるには何が必要でしょう?」「日光」「はい、他には」「土」
「はい、他には」「水」
「はい、他には」「肥料」
「はい、他には」「朝顔をつくるには、こんなにたくさんのものが必要なんです。ではこの黒板にまとめたものをノートに写して、
今日の勉強は終わりにしましょう」というのは、閉じた発問による授業である。
知っていることを出しあい、まとめただけで、そこにはこれまでになかった新しい活動や発見が含まれていない。
「朝顔を育てるには何が必要でしょう?」「日光が必要です」「なぜ、日光が必要なんですか」これが開かれた質問である。
「なぜなのか、答えを作り出せ」というわけである。
「一年生にこんな難しいことを聞いても、わかるはずないでしょう」「わからなければどうすればいい?」「たしかめてみよう」
というわけで、活動が始まる。
「この朝顔の鉢は、ベランダに置こう」「この朝顔の鉢は、教室の中に置こう」「この鉢は、真っ暗な所に置こう」というわけで、暗室づくりが始まる。
翌日は、だまっていても早朝から駆け込んできて、朝顔の観察が始まる。
開かれた発問は、技術的には難しい。
一つには、焦点の絞り方が難しい。開かれすぎて焦点ぼけになると、子どもはとまどってしまう。
もう一つは、開かれた発問は、子どもに答えをそれぞれに作りださせ、活動を促す発問である。
そのために、40人いれば40通りの答えや活動が生まれてくる。この40通りの答えや活動をどう扱うかが難しい。
それぞれの子どもの必死の考えをどこまで尊重しつつ、伸ばしてやれるかである。
「個性を生かす教育」の日常の授業場面における正念場といえよう。
児島邦宏(東京学芸大教授、〃附属大泉小校長)
教育展望 '95.9月号
P.12..13
「学びと育ちの子ども観を問う」
個性を生かす教育や主体的な学習活動が重視されてくるに従って、あらためて学級風土、学級づくりの問題がクローズアッナされてきた。
すなわち「ひとりひとりの子どもが思い切り自分を発揮したとき、それが認められ、大事にされる風土」に、学級がなっているかどうかが、
問題になってきた。
もっといえば、学級が支持的風土、受容的風土になっているかどうかである。
こうした、思いきり自分を発揮できる学級風土を土台にして、授業の中においても子どもは自分の考えを出し、
活動することが可能だからである。
大変に珍しいことだが、数年前に小学校と同じように授業中によく挙手する中学校を訪問した。
どの学級ということではなく、学枚全体が伝統的にこうなっているとのことであった。
なぜ、このようによく挙手するのか、その理由を聞いたところ、こう答えてくれた。「教室は正しい答えを言うところではない。
教室は間違える所だ。いつも、入学以来、子どもにこう言い聞かせ、実践してきました」。
もっと言えば、こうであった。教室は間違える所だ。正しい答えがわかっていれば、何も学校に来る必要はない。
正しい答えがわからなくて、それが知りたくて、毎日、学校にやって来る。
だから、間違って当たり前なんだ。教室で一番大事なことは、一人一人が考えをめぐらし、自分の考えを持つことにある。
そのそれぞれの考えを出し合い、もっといい考えはないか、もっといいやり方はないかとみんな
で探し求め、高め合っていくところが、教室なんだ、というわけである。
多くの学校は、これとは逆のことを行っている。いつも正しい答えを要求する。
間違っていたら、いやみたっぷりに恥をかかせる。
「やっぱり、落ちこぼれには無理だったかな」「君に指名した先生が悪かった。ゴメン」といった具合にである。
これではたまったものではない。答えが間違ったら、人格まで傷つけられてしまう。
二度と挙手などしないと決めてしまう。
中学生が挙手をしなくなるのは、「恥ずかしくなるからだ」とこれまで説明されてきた。どうやら、これは教師の勝手な解釈らしい。
正確には,「恥をかかされるからだ」と改めるべきだろう。
日常の学級経営においては、教師の指示・命令が優先し、罰や競争・緊張の中で統制しようという防衛的風土の中で、
授業だけ個性を大事にし、主体性を発揮しろといっても、それは無理というものである。
その落差に、「これは何か裏がある」とかえって警戒してしまう。子どもの自由と自己責任を根幹とする支持的な学級風土の中で、
個性的で主体的な学びと育ちは支えられていく。問われているのは、学校生活の日常性にある。
児島邦宏(東京学芸大教授、〃附属大泉小校長)
教育展望 '95.9月号
P.12..13
「学びと育ちの子ども観を問う」
福田誠治氏の説明によれば、フィンランドでは「なぜ学ぶのか」という意味での学習観がユニークであり、 「社会構成主義的な学習概念」というものに立脚しているという。 |
構成主義とは、知識には何らかの目的・価値観が前提となっていると認める立場で、知識というものは何らかの価値観に基づき、 何らかの目的をもった実践によって世界から切り取られ、構成されたものと位置づけられる。 知識は社会的な文脈の中で作られるものなのである。 学習とは、児童・生徒が自分の人生に必要な知識を自ら求め、知識を構成していく活動ということになる。 |
また、フィンランドでは能力全般をさすコンピテンスという概念は、 |
・「世界と取り組む場合に『道具』を関連づけて使用すること」 (文字や道具を対象との関わりで自由に使える力) ・「自律的に行動すること」 (自分で判断し動く力)」 ・「異なるグループと交流すること」 (多様な集団の中で社会構築に参加できる力) |
であると分析されるという。 つまり、彼らのコンピテンスとは社会的実践的能力と考えられる。 したがって、コンピテンスとは通常のテストで期待される正答が一つに限定される知識ではなく、 正答がいくつもあるもので、みんなで教えあいながら学んでいくものといえる。 確かに学びの目的がよい高校や大学に入ることでは無味乾操すぎる。 その目的のために骨身を削って競争しなければならないのであれば精神的にまいる子どもが出るのも当然かもしれない。 社会の中で自分の将来を考え、社会的意義を認識して学習すれば競争などしなくても自然に学習できるはずである。 |
教育における競争の二面性をこえて |