学校教育や音楽科教育について考察 した論文を掲載しています。 どうぞご覧下さい。 |
学習環境とは、学習者である児童・生徒たちに向けて提示されるところの題材の構成、教材、教師の問いかけや働きかけ、教師や児童・生徒の手で構成・設定されるところの学習の場など、学習を構成する様々な要件を包含する概念を表現するために筆者が使用している言葉である。
「教科音楽」に関する授業研究をはじめとする実践研究は、本来児童・生徒にどのような能力や態度を身につけさせたいかという願いや理念を基盤になされるべきものであろう。
そのような研究の場では、単なる「方法論」ではなく、いわば「内容論」「価値論」とでも言うべき「どんな能力や態度(構え)」を育てることが望ましいかについて検討・吟味がなされ、その実現のために「どんな内容で」「どんな場で」学習できるよう仕組むことが有効であるか、といった「教科論=内容論」について論じ合い、検討を重ねることがまずなければなるまい。
しかし、教育の現場では「どう教え伝えるか」といった方法論について論じられることが多く、内容については語られることが多くはなかった。が、「新しい学力観」ということが言われ始めてようやくそのような気運が盛り上がりつつある。いわば、本来的な実践研究を展開することのできる下地ができたと言って良いであろう。つまり、「新しい学力観に立った学力像をどうとらえるか、どう想定するか」が個々の教師にあずけられたことによって、避けて通ることのできない切実な問題として浮き彫りにされたからである。
それでは、児童・生徒にどのような力や態度を身につけさせることが望ましいかと言えば、それは、音楽を音楽として成立させているさまざまな要素についての情報を選択・操作し、自己表現に役立てることのできる力や態度、さらに役立てようとする構え(意志)であると筆者は考えている。このことについては後述したいと考えているが、自分なりの気づきをもとに、表現をつくりあげるさまざまな音楽の情報を選択し操作する活動を通して、新しい価値体系を自らの内に構築したり構築し直したりできる能力や態度こそ、進んで音楽に取り組み、よさを味わおうとする構えや心の動きの確かなインフラとなることが予想されるかである。
そのような音楽に対する働きかけそのものが創造的な取り組みであると考えているが、そのような創造的な取り組みは、今まで見えていなかった「新しい自分」や「音楽にかかわっていける自信と勇気を得た自分」との出会いにつながるはずで、それが学習を深化・発展させる動因となることは明らかである。
自分自身のよさを発揮しながら自分自身を育て、成長させていくことができるように学校生活を編み、授業を構想することができれば生涯学習社会で生きがいをもって生活できる人間の育成につながるであろうことは言うまでもない。
そのような授業を具現化するためには、教科「音楽科」の指導内容をどう組織するか、そのためにどう学習環境を構成していけばよいか、といった質的で内容的なことがらこそ問題にされなければならないのである。
では、具体的な学習の場でどのような内容でどう学習をしていけば、望ましい力や構えが身についていくか、といえばこれは難しい問題である。
その問題に答える一つの案として、筆者は次のような学習環境を提案したい。
まず第一に指摘したいのは、学習者である児童・生徒にとって期待が持て、見通しの持てる内容として題材が組織・構成されている必要があるということである。
そして第二には、自分の問いに十分時間をかけて納得いくまで取り組むことができ、自分の学習を自分の手で展開していくのだという活動意識が持てるような題材の構成になっているということである。
さらに、第三には自然に「問い」を発したくなるなるよう、自己の働きかけが鏡(リフレクター)のように直接はねかえってくることによる「問い返し」のある教材で授業が構成されている必要がある、ということである。
《学習環境の構成》
1.期待と見通しが持てる学習内容
2.学習者がイニシャチブをとりコントロールできる
3.問い返しのある教材による題材構成
子どもが、自分の取り組みによって自分自身を新しい自分に変えていけるだろうという期待を持つことができ、しかもそうなるためにどんなことをどんな手順や方法で学んでいけば良いか、自分にとっての課題は何か、などについて認識することができれば、自分の学習を自分自身でコントロールしながら自己の成長のために主体的に取り組むことができるであろう。
それが、第一の指摘の内容である。
従来の音楽科に於ける学習過程では、学習の見通しを学習者自身が持つということについてさほど重視してこなかった傾向がある。
というよりも、音楽科では指導者の施す「教授内容(=おけいこ)」に学習者が従順に励むことが大切であるといった伝統的な指導観に束縛されていたきらいがある。そのため、「教師の指導目標=学習者のめざすべきもの」として暗黙のうちに強制され、しかもそのことをめざして学習活動を展開していくことこそ「自主的で主体的な学習の姿」であると受けとめられる傾向が強かったと言っても過言ではない。
つまり、逆説的な言い方ではあるが、自分のイニシャチブを放棄し、教師の示す課題にそって不満を言わず努力する「積極的な受容性」を持った子どもの姿を「主体的」で「積極的」な取り組みの姿と取り違えてしまっている傾向が私たちにはあったのではないかと思われてならないのである。
たとえ、技術は稚拙であっても自己表現としての音楽は「自己の何ごとかを表現したい」という意志の下に成立するはずであり、そうでなければ幼児が自分の知識と技術のありったけを総動員して自分を取りまく環境との関係を形作っていく、といった行動は解釈できないことになる。
幼児がカタコトの言葉で母親とのコミュニケーションをとりながら、自分の環境に対する働きかけが有効であったかどうか知らず知らずの内に自己評価しながら次第に安定した技術としての「話し方」を身につけていく、という活動は音楽の学習にもそのままあてはめて考えることができるであろう。
子どもの多くは、小学校の低学年から中学年の間に「自転車乗り」の技術をマスターする。しかも、その技術を獲得するためには多くの努力が払われることが多く、楽に容易に自転車に乗れるようになったという例はあまり聞かれないにも拘わらず、ほとんどの子どもが自転車に乗れるようになるのである。
これは、どういうことによるのであろう。
もしも、できなければおもしろみを感じられないし、やろうという意欲を持つこともできないとしたら、こんなに多くの子どもが自転車乗りの技術を身につけることができているということはうまく説明できないであろう。
なぜなら、多くの子どもはそこに大きな困難を感じていることであろうし、実際に幾度も転んでは怪我をし、恐怖心と戦いながら覚えようとするからである。
その恐怖心を乗り越えさせているものは、自分の力の広がりや自分の世界の広がりに対する「期待」と「希望」なのであろう。
安定した技術として身につくまでの間に、子どもたちはさまざまに自己の力の広がりと世界の広がりを感じている。
おぼつかない乗り方であっても、確かに足を地面につけずに進んでいて、しかも歩く時とはまったく異なるスピード感が味わえ、気を許せば倒れてしまうという緊張感に溢れ、自分を取り囲む景色までが違って見える経験は誰でもしている。
その驚きは外界に対してだけではない。
それは、自分自身にも向けられている。
自転車に乗れる新しい自分の発見である。
「世界の広がり」の確認とは、新しい能力を獲得した自分の発見とそれによって生じる「自分を取り囲む環境との間に新しい関係を見いだすこと」なのである。
「どうせ僕なんかだめさ。」という無力感を感じさせない、あるいは感じてしまうことがあってもそれを凌駕するだけの「期待」がそこにあることが、子どもを自然に頑張らせてしまっているのであろう。
佐伯*1は、「意欲(やる気)」について、次のように論じている。
子どもに内在するところの、
1、ぼくは外界の変化の原因となりうる。
2、ぼくには何らかの能力がある。
の2点を認めてほしいという要求が、「やる気」の根源である。
*1
自分には「できる(乗り越えられる)」だけの力があるんだ、と自分を信頼することができ、そのことに対する期待があるからこそねばり強くやり遂げようとすることもできるし、問い続けることも可能なのだ。
下山*2は、その間の事情を次のように述べている。『有能感(competens)とは、自己の能力に対する肯定的
な認識とそのような有能さを追求し、高めていこうとする傾向を意味する概念であり、効力感とも言われる。平たく言えば、「私はできる」という認識と満足感、さらに「もっとできるようになりたい」という欲求を含んでいることばである。』*3
自転車乗りをマスターするための練習、つまり学習には自ずと有能感を味わいながら期待を抱くことができる要件が内包されているのである。
教科「音楽科」の学習内容がそのような要件で満たされていれば、児童・生徒は自らを励ましながら自分にとって大切な表現手段の一つとしての「音楽」に気づき、その価値に近づいていこうとすることができるであろう。
そのためには、その学習の導入時や終末時に「こうなってみたい・こうできてみたい」という新しい自分に対する期待が持てて、しかも「そのために自分が自分にしてあげられる事は何か、どうすればそこに近づけるか」という学習の手順や方法を選択・決定できるような、即ち「学習の見通し」が持てるような内容として題材が提示される必要がある。
それが第一の指摘の内容である。
人間は自分の発した問いの解決に向けて、洞察し、試行錯誤しながら自分にとって納得のいく解答を見いだすことに大きな喜びを感じるものである。或いは、解答に至る道筋を見いだしたり解決手段を探ったりすることそのものに喜びを感じるものである。
学習するということはさまざまな事象やさまざまな観念に対するその人なりの関係の発見である。その人なりの関係を発見するとはその人にとっての「意味」を見いだすことに他ならない。
一人一人の児童・生徒が自己との関係を意識しながら学習を進めていけるような内容となっていることが必要となるが、その際には納得のいく解答が導き出せるだけの個々の取り組みなり、そのための時間が保障されていることが必要であろう。
しかし、教科の学習の中では個の学習の成立について十分保障されていたかと言えば、反省すべき点が多い。ここにきて「個を生かす学習」「個性の重視」ということが言われてきているが、それは「自分なりの取り組み方で」「自分のよさを発揮しながら」主体的に熱中して取り組む姿を想定して言われていることである。
そこで、学習者がイニシャチブをとりコントロールできる学習環境を整えることが大変重要になってくる。
たとえ年少の子どもであっても、何の意味も感じられないような、従って働きかけの目標の持てないような環境に、能動的・主体的に働きかけることはとうてい考えられないからである。
自己学習能力の核をなすものは、「自律学習能力」すなわち自分の学習を自分で制御し自分にとって最良の成果を発揮しようとする構えや力であると考えられる。
自律の内容について、一つは「課題設定について」二つ目には「時間について」三つ目には「空間について」の自律能力が考えられる*1が、それらについて児童・生徒が発揮したくなり発揮できるような授業の設計が望ましい。
自分の学習の主体は他ならない自分であり、自分が自分の学習をつくりあげているのだ、という意識が持てるような学習内容の構成や場の設定がなされていれば、生涯学習社会の中で生きて働く力の育ちにつながるはずだ、とするのが第二の指摘の内容である。
本来、子どもは「学習」活動をよくする存在である。旺盛な学習意欲も、学習能力も、ともに持って生まれてくる。人間の子どもの「学習」活動の活発さは、他の動物と比べても際だっているが、子どもはそれだけでは何でも「学習」してしまう。
そこで求められるのは、先に見たところの「よりよいものをめざして自己をコントロールしねばり強く取り組もう、問い続けようとする力や態度」なのである。ねばり強く取り組むためには、自己の学習について振り返り確かめる活動がどうしても欠かせない。
学習の過程で何らかのフィードバック情報(K・R情報)が与えられることで学習に深まりや広がりが期待できるが、従来その役目は主に指導者である教師が担ってきたと言える。しかし、教師がフィードバック情報を与えることよって、学習の主体者である児童・生徒が自分で自分の学習をコントロールしているのだという実感、すなわち指し手感覚を損なってしまう惧れがある。
そこで、教材そのものが問い返しの内容を有していたり、児童・生徒の働きかけに対して「鏡のように」問いをはね返してくる作用を有していれば、そのような指し手感覚を損なうことなく、学習の成立を助けることができると思われるのである。つまり、学習者の働きかけが学習者の意図に叶ったものであるか否かについて、学習者自身がその「はね返し」から反省的に判断できれば、指し手感覚を損なうことなく学習を進めることができると考えられるのである。
音楽の学習に於いては、自分の(自分たちの)演奏を録音し聴取する活動がよく行われる。あるいは、友だち同士で聴き合い評価し合うといった活動もよく行われる。これらは、すべて「振り返り確かめ」ながらより良い表現をめざさせようとする指導意図の現れであろう。しかし、録音するにしても友だちに聴いてもらうにしても、それは自分の演奏そのものがありのままの姿ではね返っているわけではないし、ダイレクトなはね返りでは勿論あり得ないから、学習者自身が「問い返され」ているという実感は薄いものとなってしまうであろう。
そのような方法的な次元での「問い返し」とは別に、質的な次元での「問い返し」も児童・生徒の内発的な強い動機づけとなる。
自分の考えををわかってもらいたいと切実に感じている文脈の中では、自然に創造的になったり、論理的になったり、批判的に吟味したりしてしまうのだ、という藤岡*1の指摘*2は重要である。
そのような切実さを現出できる学習内容を柱とした教材を開発することができれば、自然に無理なく自分自身をコントロールしたくなったり、そのことによって「よりよく自己をコントロールする力」を身につけることができるであろう。
しかも、自分の指し手感覚を損なうことなく、である。
それが第三の指摘の内容である。
ここまで見てきたような学習環境を構築するために、コンピュータの活用が有効である、というのが筆者の考えである。
コンピュータを核にした音楽学習のシステムが構築できれば、何よりも無理のない「問い返しのある学習環境」の構成が期待できる。そして、児童・生徒一人一人が自己の問いを心ゆくまで、納得できるまで問い続ける環境を構成することができるであろう。
さらには子ども一人ひとりが指し手感覚を失うことなく、学習の対象そのものに働きかけながら、自己の効力感を味わいつつ学習を進めることができるような自律的な学習を促す環境の構成も期待できる。
D.T.M(Desk Top Music)という言葉が一般に使われ、広まりはじめたのはつい6年ほど前からである。
D.T.M(以下DTM)とは、コンピュータを使って音楽演奏についてのさまざまな情報を操作し、音楽をつくったりコンピュータに自動演奏させたり、その曲の楽譜を印刷したりすることのできるシステムのことである。
このシステムを活用することにより、楽器の得意・不得意にかかわらず、誰でも音楽づくりの楽しみを味わうことができるようになった。
小学校や中学校においては、児童・生徒が無理なく音楽づくりをしながら、楽しく音楽のさまざまなことがらについて学びとっていけるであろう。 児童・生徒ばかりでない。指導者である先生も有効に活用できる豊富な機能を持っていることから、音楽の授業のみならず、クラブ活動や部活動などでも大いに活躍が期待できる。
そのようなシステムを導入し活用することによって、どのように音楽の学習を転換できるのであろうか。
コンピュータがあれば、あるいはコンピュータを積んだ電子楽器があればすべて解決がつくというものではないことは言うまでもないが、そのことによって期待できる良い効果には大変大きなものがある。
それは、ある曲を上手に歌えるようになるとか、あるフレーズを正確に弾けるようになるといった目に見えるけれども個々バラバラの効果ではない。もっと大きな、「音楽に対する構え」や「音楽への取り組み方」や「音楽への自信」といった基本的な効果であるはずである。このような音楽ソフトによるDTMのシステムが音楽の授業に取り入れられ活用されることによって、音楽に対する自信と勇気を取り戻した音楽好きの子どもが増え、喜んで音楽に取り組もうとする子どもが増えることを切に望むものである。
音楽は子細に眺めてみれば、種々の情報が有機的に組織化されたものであるから、コンピュータで操作することが可能な部分が多くある。
一つの音をとってみれば、その音の立ち上がる速さや強さ、そしてある響きに落ちつくまでの時間、ある強さで保持される時間、鍵盤から指を離してから完全に消えるまでの時間やカーブなど、時間の経過につれて変化する音の様子(エンベロープ・ジェネレータ、EG)を数値で表すことが可能である。数値で表すことができるということは、コンピュータに置き換えて操作することが可能である、ということになる。
さらに、自然界にある様々な音は、その音に固有の音色を有しているが、それは波形すなわちどのような倍音を含んでいる音かという倍音構成で表すことが可能であるということである。
左図のような基音の波形に対して、その中に含まれるより細かい波(倍音)がどのように含まれているかでさまざまな音色の違いが生じているのである。
基音に対して、2倍、3倍、4倍……と整数次の倍音をすべて含んでいれば、鋸歯状波になる。つまり、周波数の低い倍音から高い倍音までを均等に含んでいて、明るく硬い音色の金管楽器などは、この波形を持っているのである。
これとは対照的に、ほんのわずかしか倍音を含んでいないのが三角波で丸いこもった音色がこの波形を持っている。
矩形波は、基音に対して3倍、5倍、7倍……と奇数倍の倍音を含んでいて、偶数倍の倍音がない分だけ、鋸歯状波より丸みを帯びた音色で、クラリネットやフルートなどの楽器音はこの波形を持っている。
このようにして見いだされる音色の波形も数値で表すことが可能であり、逆に言えば、このような波形やEGを操作することで、弦楽器のような音やトランペットなどの管楽器などの音も数値を操作することでつくり出すことができる訳である。それがディジタル・シンセサイザーである。
さらにディジタルなデータを扱うディジタル・シンセサイザーであることから、コンピュータによる操作が可能になったという経緯があるが、一つ一つの音についての情報を操作するだけではなく、どのような音をどんなタイミングや大きさでどんな順序や速さで鳴らすか、といった指示をコンピュータに与え(プログラムして)自動演奏することも可能であることから、コンピュータと音楽とのかかわりが生じてくるのである。
そのような音や演奏の情報を取り扱うのがDTMのシステムであるが、フランスではこれを「情報音楽」と呼んでいるという話は、このシステムの実体をよく表していると思われる。
つまり、ここで扱っているのは音楽の表現についての情報そのもので、ワープロでつくった文書のように何度でも呼び出して編集し直したり、演奏させたりすることが可能な音楽がコンピュータを活用することで出現したのある。
従来の音楽は、時間の経過とともに消えていってしまう、いわば「リアルタイム・ミュージック」であると名づけることができるが、そうするとこのDTMのシステムによる音楽は、時間にかかわりなく操作することのできる「ノンリアルタイム・ミュージック」と呼ぶことができるであろう。「ノンリアルタイム」であるから、時間にかかわりなく必要があればいつでも呼び出して演奏させたり、編集の手を加えたり、パソコン通信などの手段を利用してデータをやりとりするなど、時間・空間に束縛されない音楽への働きかけが可能になるのである。
DTMのシステムでは、音楽の演奏表現に関するさまざまな情報をコンピュータのディスプレイ(画面)上で選択・操作することが可能であることから、演奏技能にかかわりなく音楽に働きかけることができる。
マウスと呼ばれる機器を操作して、必要な音符や記号を選んでディスプレイ上に表示された五線譜に貼りつけたり、MIDIインターフェイスを介して接続したシンセサイザーなどの電子楽器で弾いた演奏の情報をデータとして取り込んで記録し、弾いた旋律を楽譜として画面に表示させ編集するなどして音楽をつくったり、その音楽をコンピュータに自動演奏させることができるのである。
これまで音楽は、「作曲をする人」とその曲を
「演奏する人」、さらにそれを「聴く人」の三者があってはじめて意味を持つことができた。
画家が描いて展示した絵画は、もうそれだけで作品としての成立を見ることができるが、音楽ではそうはいかない。作曲者が楽譜に書いただけでは音楽とは成り得ず、その楽譜を作曲者の意図にそって読みとり演奏し表現してくれる演奏者や指揮者の手を必要としている。しかし、DTMの世界では「自分でつくり、自分の欲するように演奏情報を操作してコンピュータに表現させ、自分で聴いて確かめたり楽しんだりする」ことが可能なのである。まさに三者の立場を一個人内で実現することができるのである。
「コンピュータに表現させる」「コンピュータに演奏させる」とは言っても、表現させているのは他ならない「自分」であるから、表現の主体であることに何ら変わりはないと言って良い。
そのように、音楽に直接働きかける行動を通して音楽と自分の関係を捉え直し、自分の世界の広がりを確認すること、それがDTMの楽しみだ、と言い切って良いであろう。
自分が創作したものや既存の楽曲のデータを自分の手でコンピュータに入力し、さまざまな情報を与えて音楽として演奏させること、そして自分の耳で確認することは、自分の世界の広がりや自分の力の広がりを実感させてくれるものなのである。自分の力によって音楽の表情が変化したことが確認でき、そのことによって自分の音楽への働きかけが有効であったかどうかが確認でき、さらには音楽と自分との新しい関係が生じたことを実感できるからである。
もし、ピアノやオルガンなどの鍵盤楽器に触れたことがなく、そのことで音楽を演奏すること、音楽に触れることに遠慮や抵抗を感じていた人であれば、自分でも音楽とかかわっていけるという自信と勇気を得ることができるであろう。
自分が「創作者」にも、演奏にさまざまな指示を与える「指揮者」にもなれる、という「自分の世界の広がり」「自分の力の広がり」を感じながら音楽に取り組んでいる姿をそこに見ることができるであろう。
そのような姿で取り組めることが、まさに「DTMの楽しさ」なのでである。
人間はもともと創造的な存在である。
どんな簡単で稚拙なものでも、自分の創意や工夫によって生み出したものには、大きな喜びを感じるもので、生まれながらに「つくり出したい」という欲求を持った存在が人間であるということも言る。
たとえ、どのように稚拙な作品であっても、それが他ならない「自分だけのもの」であり「自分が十分出せたもの」「心を入れたもの」であれば、確かな喜びが味わえるものなのである。
演ずることのおもしろさや楽しさ
聴くことの楽しさや快さ
つくることのおもしろさや心のときめき
それらは、すべて音楽の「よさ」である。
従来、演ずることや聴くことについてしつこいほどに指導することはあっても、本来人間的な音楽へのかかわりである「つくること」について、そのおもしろさをわかってもらえるだけの努力をしてきただろうか、という疑問を禁じ得ない。 むしろ、「つくること」はむずかしいこと、素人には手の及ばないものとして、つくらせることを敬遠してきた傾向があったとは言えないだろうか。
音楽についてほんの少しの知識や技術しか持たない子どもが音楽をつくるなんて大それたことはできるはずがない、その前に知るべきことや理解すること、身につけなければならないことがたくさんあるのだから、と断定してきた傾向がないとは言い切れない。
そんなことはない。これまでも「つくる」活動についての指導は十分にやってきた、という主張があるかも知れない。
一歩引いてそれらの主張を認めるとしても、それらは「つくること」のまねごとをさせたに過ぎない場合が多いのではないだろうか。
言ってみれば、大人の論理にかなう「曲らしいもの」にどう似せてつくるか、を子どもたちがなぞったに過ぎないことが多いように思われて仕方がない。
「塗り絵」をしたり「写し取り」をしたりすることは即ち「つくる」ことなのではない。
「つくる」とは、どこかに自分の発想が組み込まれ、自分なりの工夫が存在することによってなされるものなのである。
「つくる」ことのおもしろさは、
自分で構想できる。
自分の好ましいものをめざせる。
他にないものをめざせる。
という意味で他から規制を受けない自由さにある。
いつ始めても良いし、いつ終わっても良い。
どうつくっても良いし、途中で変更しても良い。
真似ても良いし、真似を拒否しても良い。
自分のつくりたいものになり得ているかどうかだけが自己評価の観点として重要な意味を持っているのである。
であるから、そのような活動を通して、経験的にさまざまな知恵や技術、つくり出そうとする構えなどを自分の欲求で身につけていくことができるのだということをこそ私たちはもっと認めて良いように思われるのである。
音楽を音楽として成立させている要件として、國安氏*1は次ページの様に見ている。
このように音楽の成立する要件をとらえると、そのどこにでも子どもたちが働きかけ、操作してその表情の変化を味わうことのできる余地があると考えられる、と國安氏は論じている。
それぞれの要件のパラメータ(変数)を様々に変えてみる活動によって、子どもたちは自分の働きかけが原因となって、音楽の様相に変化が生まれ新しい価値が生じる、という「自己原因性の感覚」に基づく効力感(コンピテンス=有能感)を実感として味わうことができるはずである。
【音楽の成立する要件】 *1
SOUND
(TONE)
TIMBER DURATION PITCH VOLUME
(音質)(持続時間)
TEMPO
TONECOLOR RHYTHM MELODY HARMONY DYNAMICS
TEXTURE
FORM
(MUSIC)
音楽のどのような要件を選び出し、どのようなパラメータを与えれば自己のめざす表現に近づけるかといった実験的な試みをすること、それがとりも直さず「創造的な働きかけ」であり指導要領の言う「つくって表現すること」なのだ、と筆者は考えている。
このような音楽への創造的な働きかけを通し、様々なことがらについて学びとっていく活動が「教科音楽」の学習そのものであると言えるのではないだろうか。 だから(余談ながら)、ふしづくりなどによる作曲活動が「つくって表現する活動」なのではなく、それらを含んだ音楽への創造的な働きかけそのものが「つくって表現する活動」なのだと思われてならない。
そこで必要となるのは、自己のめざす表現にするためにはどんな要件を選択し、どう操作すれば望む表現に近づけることができるか気づき予想し見通せる力、判断できる力、操作できる力である。
そのような音楽表現に関するさまざまな情報を自分なりに選択・操作すること、そしてそれを自分の表現に生かそうとする姿勢(構え)を育てていくこと、あるいは子ども自身が自らを育てることができるようにしてやることが教科「音楽科」に課せられた使命なのではないだろうか。
いわば、音楽に関する「情報操作・活用の能力」である。
そのような「情報操作・活用の能力」を伸ばしていくために、コンピュータの活用が有効だと考えられているのが現在の状況である。
コンピュータを使いこなす能力、いわゆるコンピュータ・リテラシーということが言われているが、それは単にコンピュータを使うことができる、あるいは活用することができる能力、といったことだけを指すのではないであろう。
それは、先に述べた、自己内の知的体系を組織したりつくり変えたりするための必要な手段として、情報を選択し操作することのできる能力、さらにそのことによって学ぶ力を身につけていくことに重きをおいた言い方であると考えるべきなのである。
そして、そのための有効な道具としてコンピュータを活用できる能力の育成という意味が、コンピュータ・リテラシーを形づくるバックボーンにあるこということを認識しなければならない。
つまり、人間の頭脳の活動である記憶、判断、演算、表現などに情報機器を役立て、知的活動の増幅器として情報や情報機器を活用できる資質は万人に必要であるととらえ、その育成を学校教育段階で行おうとする動きがそれなのである。
新学習指導要領が告示された平成元年の頃から、「コンピュータ教育」ではなく「情報教育」、「コンピュータ・リテラシー」ではなく「情報活用能力」という用語を使うようになった事情もそこにあると考えるべきであろう。
自分なりの気づきをもとに、さまざまな情報を選択し操作する活動を通して、新しい価値体系を自らの内に構築したり構築し直したりできる能力や態度の育成こそ、これからの学校教育に望まれていることであり、音楽科教育も例外ではないのである。
そのような創造的な取り組みは、音楽に直接働きかけ働き返されるという音楽との相互作用が保障できるような学習環境によって増幅される。
認知や技能・能力だけでなく、誰でも無理なく情意を生かした取り組みができるといった仕組みがなければ、生涯学習論的学力観に基づく自己教育力など育ちようがないが、コンピュータを活用することで無理なくそのような学習を仕組むことが可能になるはずなのである。
音楽の演奏表現に関する情報をさまざまに操作して、自分の思い通りの演奏に仕上げることができるまで、何度でもつくったりためしたりすることが可能なのが、ノンリアルタイム・ミュージックである。リアルタイム・ミュージックが、時間の経過の中で消えていってしまう「ただ一度」の演奏であるのに比べ、ノンリアルタイム・ミュージックは、いつでも呼び出して編集することが可能であるから、失敗を恐れずに心行くまで創造に参加することができるのである。
しかも、先に述べたように「つくる」「演奏する」「聴く」が一個人内で可能であることから、音楽づくりを楽しみながら無理なく自然に、自分の音楽への働きかけを自分で評価し確かめながらの活動が可能になる。
そのような活動を通して、子どもたちは「音や音楽のイミ」そして音楽の諸要素について体験的に学習していくことができるはずなのである。
また、このコンピュータを活用したノンリアルタイム・ミュージックは、ディジタルな情報であるから、「自分の音楽」のみではなく友だちや先輩など時間的・空間的に離れた人々の音楽に触れることが可能になる。
具体的には、先輩や他のクラスの友だちがつくった音楽のデータを呼び出して音で聴き、ディスプレイに表示された楽譜を目で確認しながら楽しんだり自分たちの学習に活用したりしたりすることが可能になるのである。
リアルタイム・ミュージックでは、テープやCDなどに録音された音楽を耳で聴くことはできても、それがどのようなつくりになっているのかということを目で確認することは(楽譜に記録されていれば別だが)不可能である。
ディジタルな情報を扱うノンリアルタイム・ミュージックの世界では、楽譜に表示したり数値で表示したりして、目と耳の両方で確認しながら「こうするとこうなる」というように、音と音楽の関係や音楽のつくりなどのついて学んでいくことが期待できる。だから、子どもたちにとってわかりにくかった表現の手法についても「教えられずに」「学んでいく」ことが期待できるのである。
マーセルは、音楽性(音とリズムで表されたものに反応する力)を伸ばすことが、さまざまな音楽的能力を育成することにつながると指摘している。
コンピュータを音楽の学習に導入し活用することで得られるメリットの最も大きなものは、この「音とリズムに反応する力」を無理なく自然に身につけることができるというところにある、と考えている。
コンピュータに入力されたデータがコンピュータに接続されたシンセサイザーを鳴らす、という仕組みがDTMのシステムであるが、単に入力されただけのデータによる演奏は、まさに機械的なそして無表情な演奏でしかない。
その演奏に生命を吹き込むのが、人間による「情報の選択・操作」で、そう考えると最初に示される音楽が規則的で単調であることは却って都合が良いとさえ言える。
つまり、音楽として聴こえはするが、音楽としてはつまらない、どこか違う、何が原因か、といった探究活動に追い込まれることに意味があると考えているのである。
価値あるものに敏感に反応する「気づき」=感性は、ある日突然に身につくものではなく、自己の感性を精一杯働かせる活動の積み重ねによってよりよく育っていくものであると考えられる。
注意深く耳を澄ませて聴く活動、想像力を働かせながら聴く活動などが感性を育てる上で欠かすことができないが、より良いものをめざそうとする心の動きが「気づき」を促すことは容易に想像がつく。
すなわち、自分の活動の成果について見きわめ、より高く確かな達成を図るために適切な方略を採ろうとする自己モニタリングの心の動きと感性の働きが相互に作用し、それぞれが発達を促し合うという構図が想像されるのである。
自分のめざす演奏に近づけるために「何をどのように変えれば良いか」「何をどのように加えれば良いか」をその子なりに見つけだす経験を積むことで、感性を伸ばしていくことが期待できるのである。
そのためには自分の演奏を客観的に冷静に見つめる機会を持つことが大切なことは言うまでもない。
コンピュータによる演奏を客観的に聴くこと、それはとりも直さずコンピュータから問い返されるということだが、そのことによって自ずと自らの「耳」を働かせる必要に迫られ、働かせることで「音とリズムに反応する力」を伸ばす活動を知らず知らずのうちに行ってしまうことが期待できるのである。
そして、さまざまなパラメータを操作し、自分の意図する「人間らしい表現による音楽」に近づけるためには、多くの情報を操作しなければならないことに気づき、「人間が何気なく自然にしていることの情報量の多さやすばらしさ」の発見にも立ち至ることができるだろうと考えている。
さらに、コンピュータを活用することにより、子ども一人一人がつくりあげた「音楽の情報」を個人の財産としてだけでなく、お互いの共有財産として解放し持つこともできる。
DTMのシステムを使えば何年前のデータであろうとも読み込んで活用することが可能であるから、友だちや先輩の作品を鑑賞したり、その作品にさらに手を加えてその味わいの変容を楽しみながら音楽の成り立ちを学びとるなどの学習をすることが可能になる。
従来、友だちや先輩の作品や演奏を聴くということはあっても、それに手を加えて「自分なりのものにつくりかえる」という活動を仕組むことは絶対に不可能であった。
このようにデータの保存ができ、いつでも呼び出して再編集することができる、ということはコンピュータを使うメリットの一つであると言えるであろう。
MIDIキーボードで弾いた演奏の情報を録音するように記録する「リアルタイム入力方式」では、単に録音するだけでなく、その演奏情報を楽譜として表示してくれることから、自分の演奏した音楽は楽譜に表すとこのようになるのか、ということを楽譜と音符という慣れ親しんだ形で視覚的にとらえ、確認することができる。音や音楽は目に見えない表現手段であるが、コンピュータは、それを「目に見える形」でわたしたちに示してくれる。そして単に可視化するだけでなく、自動演奏という耳でも確かめられる形で示してくれるので、有効な音楽の学習を展開することができるはずだと筆者は考えている。
しかもこのようなディジタルな情報は時間的・空間的に離れた人々の音楽でも、いつでも呼び出すことができ、目で確認したり楽しんだりすることができるのである。
そのことによって、音楽の諸要素やさまざまな様式について、「教えられずに学んでいく」ことが期待できると考えているのである。
コンピュータを活用することで及ぼされる効果について、これまで述べてきたことをまとめると次の3点になるであろう。
ア、学習内容を『技術の指導』から『音楽への参加の呼びかけ』へと
転換することができる。
イ、「つくる・ためす」などの創造的な学習を無理なく仕組むことがで
きる。
ウ、個性を生かした学習を仕組むことができる。
音楽という文化に参加しながら参加の仕方をよりよく学んでいけるようにするために、子ども一人一人がその子らしい発想や取り組み方で音楽の情報を選択・操作し、表現に生かしていけるように仕組んでやることが大切なのである。
そして、子どもがコンピュータを通して本当の文化に直接触れる機会が増大していくことを考えると、教師の役割についても、従来とは違った意味を考えなければまるまいと考えている。
そこで考えられることは、教師もまた「学び手」になる、ということである。 つまり、本当の文化に対して、教師は、子どもと「ともに学ぶ」存在になり、子どもとともに世界の意味の広がりと深まりを味わい、感動し、自身の好奇心をかきたてる存在となって良いのだろうということである。
そこでは、先生は「教える人」ではなく、子どもと同じスタートラインに立った「学ぶ人」になれるのである。先生から「教えられる」のではなく、先生に「教えてあげられる」自分を子どもが発見することもあるであろう。
そのことで、学習の主役になれる自分自身を発見したり、楽器が不得意でも意欲をもって学習に取り組めたりする子どもが出てくることが期待できる。「教える存在」から「ともに学ぶ存在」へと教師の意識が変わるだけで、子どもの内に主体的・能動的な心の動きを芽生えさせることができるのではないだろうか。
コンピュータで音楽の学習をする、ということは演奏に関する技能の垣根を取り払った環境で学習をすることができるということである。ピアノの得意な子も不得意な子も同じスタートラインに立って学習を進めることができるのである。
子どもたちの音楽経験や演奏技能に関係なく、誰でも公平に音楽の学習をが進めることができ、音楽の授業で学んだことや獲得したことで認められ自分でも認めることができる、という授業の仕組みが、これからの学習を考えた時、どうしても必要である。
コンピュータがもたらす「問い返しのある学習環境」は、無理なく自己統制しようとする意欲や構えを育ててくれるだけではなく、そのような公平な学習環境も提供してくれるはずである。なぜなら、ピアノやオルガンが得意だとしても、音楽の情報を選択・操作することについても同様に得意で、創意を生かした取り組みについても他の子どもよりも優位に立つとは限らないからである。
そしてそのような誰にとっても公平な音楽の学習は、「僕にもできる」という自己肯定的な認識に基づく学習意欲につながる、と思っているが、そのことによってワクワク・ドキドキしながら音楽に働きかけながら学びとっていくという「知的興奮」に支えられた学習の展開も期待できると思っているのである。
「こんな表現にしたいのだが、どんな音楽情報を操作すればいいかな」と自分に問いかけ、選択と操作の経験を通して「操作した結果こんな演奏ができたから今度はこうしてみよう」とか「こうしてみたらどうなるかな」といった見通しや新しい問いを発しながらに主体的に学習していけるだろうと考えている、これまでの実践で確かな手応えを得ることもできている。
そこで得られた力や構えは、DTMのシステムを離れて自分の声や楽器で表現する実際の演奏による表現活動をする際の力強いエンジンになってくれるはずである。自分のコミュニケーションの有効な手段として音楽をとらえ、新しい音楽文化を自らの手でつくっていこうとする子どもの育ちにつながる音楽科の学習を考える時、このDTMのシステムによる学習活動と具体的な表現活動があいまれば、よりよい学習環境を構築することができるであろうと考えているのである。
リアルタイム・ミュージックでこそ味わえる音楽のよさや楽しさ、ノンリアルタイム・ミュージックでこそ培える音楽の力のそれぞれを認め、「生きて働く力」の陶冶をめざしてより良い学習環境を提供し支援することこそ私たちの務めであることをあらためて記し筆を置きたいと思う。
学習環境とは、学習者である児童・生徒たちに向けて提示されるところの
題材の構成、教材、教師の問いかけや働きかけ、教師や児童・生徒の手で構
成・設定されるところの学習の場など、学習を構成する様々な要件を包含する概念を表現するために筆者が使用している言葉である。
現在のところ他に適当な言葉を見いだすことができないので、この稿をこの言葉による主題で書き進めることにしたい。
「教科音楽」に関する授業研究をはじめとする実践研究は、本来児童・生徒
にどのような能力や態度を身につけさせたいかという願いや理念を基盤になされるべきものであろう。
そのような研究の場では、単なる「方法論」ではなく、いわば「内容論」
「価値論」とでも言うべき「どんな能力や態度(構え)」を育てることが望ましいかについて検討・吟味がなされ、その実現のために「どんな内容で」「どんな場で」学習できるよう仕組むことが有効であるか、といった「教科論=内容論」について論じ合い、検討を重ねることがまずなければなるまい。
そして、そのような検討を経た後に、各学校の置かれた地域の実状や生徒の実態などに応じて、個々に適した方法がそれら検討された内容にそって多様に見いだされていくはずなのである。
しかし、教育の現場では「どう教え伝えるか」といった方法論について論じられることが多く、内容については語られることが多くはなかった。
が、「新しい学力観」ということが言われ始めてようやくそのような気運が盛り上がりつつある。いわば、本来的な実践研究を展開することのできる下地ができたと言って良いであろう。
つまり、「新しい学力観に立った学力像をどうとらえるか、どう想定するか」
が個々の教師にあずけられたことによって、避けて通ることのできない切実な問題として浮き彫りにされたからである。
それでは、児童・生徒にどのような力や態度を身につけさせることが望ま
しいかと言えば、それは、音楽を音楽として成立させているさまざまな要素
についての情報を選択・操作し、自己表現に役立てることのできる力や態度、
さらに役立てようとする構え(意志)であると筆者は考えている。
音楽を音楽として成立させている要件として、國安*1は次の様に見ている。
【音楽の成立する要件】 *1
SOUND
(TONE)
TIMBER DURATION PITCH VOLUME
(音質)(持続時間)
TEMPO
TONE COLOR RHYTHM MELODY HARMONY DYNAMICS
・
TEXTURE
・
FORM
(MUSIC)
上のように音楽の成立する要件をとらえると、そのどこにでも子どもたち
が働きかけ、操作してその表情の変化を味わうことのできる余地があると考
えられる。
それぞれの要件のパラメータを様々に変えてみる活動によって、子どもたちは自分の働きかけが原因となって、音楽の様相に変化が生まれ新しい価値が生じる、という「自己原因性の感覚」に基づく効力感(コンピテンス=有能感)を実感として味わうことができるであろう。
音楽のどのような要件を選び出し、どのようなパラメータを与えれば自己のめざす表現に近づけるかといった実験的な試みをすること、それがとりも直さず「創造的な働きかけ」であり指導要領の言う「つくって表現すること」なのだ、と筆者は考えている。このような音楽への創造的な働きかけを通し、様々なことがらについて学びとっていく活動が「教科音楽」の学習そのものであると言える。であるから(余談ながら)、ふしづくりなどによる作曲活動が「つくって表現する活動」なのではなく、それらを含んだ音楽への創造的な働きかけそのものが「つくって表現する活動」なのである。
そこで必要となるのは、自己のめざす表現にするためにはどんな要件を選択
し、どう操作すれば望む表現に近づけることができるか気づき予想し見通せる力、判断できる力、操作できる力である。
そのような音楽表現に関するさまざまな情報を自分なりに選択・操作すること、そしてそれを自分の表現に生かそうとする姿勢(構え)を育てていくこと、あるいは子ども自身が自らを育てることができるようにしてやることが教科「音楽科」に課せられた使命なのである。
いわば、音楽に関する「情報操作・活用の能力」である。
自分なりの気づきをもとに、さまざまな情報を選択し操作する活動を通して、新しい価値体系を自らの内に構築したり構築し直したりできる能力や態度こそ、これからの音楽科教育に望まれているのである。
そのような創造的な取り組みは、今まで見えていなかった「新しい自分」
や「音楽にかかわっていける自信と勇気を得た自分」との出会いにつながる
はずで、それが学習を発展・深化させる動因となることは明らかである。
自分自身のよさを発揮しながら自分自身を育て、成長させていくことがで
きるように学校生活を編み、授業を構想することが生涯学習社会で生きがい
をもって生活できる人間の育成につながると考えているのである。
そのような授業を具現化するためには、指導技術や指導法について研鑽を
積むといった、いわば個々バラバラの小手先の対応ではもはや教科「音楽科」を子どもにとって意味のあるものにすることは不可能である。
そこでは、教科「音楽科」の指導内容をどう組織するか、そのためにどう学習環境を構成していけばよいか、といった質的で内容的なことがらこそ問題にされなければならないのである。
では、具体的な学習の場でどのような内容でどう学習をしていけば、そのような力や構えが身についていくか、といえばこれは難しい問題である。
その問題に答える一つの案として、筆者は次のような学習環境を提案したい。
まず第一に指摘したいのは、学習者である児童・生徒にとって期待が持て、
見通しの持てる内容として題材が組織・構成されている必要があるということである。
そして第二には、自分の問いに十分時間をかけて納得いくまで取り組むことができ、自分の学習を自分の手で展開していくのだという活動意識が持てるような題材の構成になっているということである。
さらに、第三には自然に「問い」を発したくなるなるよう、自己の働きかけが鏡(リフレクター)のように直接はねかえってくることによる「問い返し」のある教材で授業が構成されている必要がある、ということである。
特に第三点の「問い返し」のある教材については、「教える素材=教材」としてのとらえではなく、「学習する素材=学習材」としてのとらえにふみこんでいける重要な内容であると考えている。
《学習環境の構成》
1. 期待と見通しが持てる学習内容による学習環境
2. 学習者がイニシャティブをとりコントロール
できる学習環境
3. 問い返しのある教材による題材構成による学習環境
子どもが、自分の取り組みによって自分自身を新しい自分に変えていける
だろうという期待を持つことができ、しかもそうなるためにどんなことをど
んな手順や方法で学んでいけば良いか、自分にとっての課題は何か、などに
ついて認識することができれば、自分の学習を自分自身でコントロールしな
がら自己の成長のために主体的に取り組むことができるであろう。
それが、第一の指摘の内容である。
■学習への期待■
従来の音楽科に於ける学習過程では、学習の見通しを学習者自身が持つと
いうことについて軽視してきた傾向がある。
というよりも、音楽科では指導者の施す「教授内容(=おけいこ)」に学習者が従順に励むことが大切であるといった伝統的な指導観に束縛されていたきらいがある。そのため、「教師の指導目標=学習者のめざすべきもの」として暗黙のうちに強制され、しかもそのことをめざして学習活動を展開していくことこそ「自主的で主体的な学習の姿」であると受けとめられる傾向が強かったと言っても過言ではない。
つまり、逆説的な言い方ではあるが、自分のイニシアチブを放棄し、教師の示す課題にそって不満を言わず努力する「積極的な受容性」を持った子どもの姿を「主体的」で「積極的」な取り組みの姿と取り違えてしまっている傾向が私たちにはあったのではないかと思われてならないのである。
そこで、教師の指導目標を十分子どもに把握さえ、理解させることができる
ような「目標の持たせ方」が重要なことがらとしておさえられ、どうすれば
教師の望む「美しい歌声」をめざした学習に子どもを追い込めるか、といった教師の論理による授業を構成できるような指導方法の研究がなされてきたのであろう。
「美しい歌声で歌うことができなければ、合唱のよさや楽しさなど味わう
ことはできない。」し「上手に楽器を演奏できなければ、音楽のおもしろさ
を実感することなどできはしない。」という論理が大勢を占めていた従来の
状況の中では、本来の子どもの主体的な取り組みは期待できない。
たとえ、技術は稚拙であっても自己表現としての音楽は「自己の何ごとかを表現したい」という意志の下に成立するはずであり、そうでなければ幼児が自分の知識と技術のありったけを総動員して自分を取りまく環境との関係を形作っていく、といった行動は解釈できないことになる。
幼児がカタコトの言葉で母親とのコミュニケーションをとりながら、自分の環境に対する働きかけが有効であったかどうか知らず知らずの内に自己評価しながら次第に安定した技術としての「話し方」を身につけていく、という活動は音楽の学習にもそのままあてはめて考えることができるであろう。
「なすことによって学ぶ」ことの典型がここに在る、とともに技術の優劣が表現の中身を大きく左右することはない、という証がここに在る。
重要なことは、「音でまたは音楽で」表現したい何ごとかを子どもたちが持てているかどうかであり、「自分の言いたいことのために表現を探る活動として音楽科の授業が仕組まれているかどうか」なのである。
そのような学習活動を通してこそ、「生きて働く力」としての知識や技術を他ならない自分の手で獲得することが可能になる。
そのような自分にとって必要な力、大切な力を獲得していこうとする中で、
「がんばろうとする」態度や構えも知らず知らずのうちに身につけていける
し、自己の向上のために奉仕しようとする志気=モラール(勇気と言い換えても良い)を身につけていくことができるのである。
別の例で考えてみたい。
子どもの多くは、小学校の低学年から中学年の間に「自転車乗り」の技術
をマスターする。しかも、その技術を獲得するためには多くの努力が払われ
ることが多く、楽に容易に自転車に乗れるようになったという例はあまり聞
かれないにも拘わらず、ほとんどの子どもが自転車に乗れるようになるので
ある。これは、どういうことによるのであろう。
もしも、できなければおもしろみを感じられないし、やろうという意欲を持つこともできないとしたら、こんなに多くの子どもが自転車乗りの技術を身につけることができているということはうまく説明できないであろう。
なぜなら、多くの子どもはそこに大きな困難を感じていることであろうし、
実際に幾度も転んでは怪我をし、恐怖心と戦いながら覚えようとするからで
ある。その恐怖心を乗り越えさせているものは、自分の力の広がりや自分の
世界の広がりに対する「期待」と「希望」なのであろう。
安定した技術として身につくまでの間に、子どもたちはさまざまに自己の力の広がりと世界の広がりを感じている。
おぼつかない乗り方であっても、確かに足を地面につけずに進んでいて、しかも歩く時とはまったく異なるスピード感が味わえ、気を許せば倒れてしまうという緊張感に溢れ、自分を取り囲む景色までが違って見える経験は誰でもしている。
その驚きは外界に対してだけではない。
それは、自分自身にも向けられている。
「自転車に乗れる新しい自分」の発見である。
「世界の広がり」の確認とは、新しい能力を獲得した自分の発見とそれによって生じる「自分を取り囲む環境との間に新しい関係を見いだすこと」なのである。
「どうせ僕なんかだめさ。」という無力感を感じさせない、あるいは感じて
しまうことがあってもそれを凌駕するだけの「期待」がそこにあることが、
子どもを自然に「頑張ら」せてしまっているのであろう。
佐伯*1は、「意欲(やる気)」について、次のように論じている。
子どもに内在するところの、
1、ぼくは外界の変化の原因となりうる。
2、ぼくには何らかの能力がある。
の2点を認めてほしいという要求が、「やる気」の
根源である。 *2
自分には「できる(乗り越えられる)」だけの力があるんだ、と自分を信
頼することができ、そのことに対する期待があるからこそねばり強くやり遂
げようとすることもできるし、問い続けることも可能なのだ。
下山*3は、その間の事情を次のように述べている。
有能感(competens コンピテンス)とは、自己の能力に対する肯定的
な認識とそのような有能さを追求し、高めていこうとする傾向を意味
する概念であり、効力感とも言われる。
平たく言えば、「私はできる」という認識と満足感、さらに「もっと
できるようになりたい」という欲求を含んでいることばである。
*4
自転車乗りをマスターするための練習、つまり学習には自ずと有能感を味わいながら期待を抱くことができる要件が内包されているのである。
教科「音楽科」の学習内容がそのような要件で満たされていれば、児童・生徒は自らを励ましながら自分にとって大切な表現手段の一つとしての「音楽」に気づき、その価値に近づいていこうとすることができるであろう。
そのためには、その学習の導入時や終末時に「こうなってみたい・こうできてみたい」という新しい自分に対する期待が持てて、しかも「そのために自分が自分にしてあげられる事は何か、どうすればそこに近づけるか」という学習の手順や方法を選択・決定できるような、即ち「学習の見通し」が持てるような内容として題材が提示される必要がある。
それが第一の指摘の内容である。
■問いと答えの間■
人間は自分の発した問いの解決に向けて、洞察し、試行錯誤しながら自分にとって納得のいく解答を見いだすことに大きな喜びを感じるものである。
あるいは、解答に至る道筋を見いだしたり解決手段を探ったりすることそのものに喜びを感じるものである。
藤岡*1は、学習と個との関係について次のように述べている。
「学ぶ」とはどういうことであろうか。
学習は決して自己と無関係では起こり得ない。学習は学習者の
パーソナリティと密接に結びついている。「学びの場」はつねに
「自己との関係で体制化されている」のである。
学習するということはさまざまな事象やさまざまな観念に対する
その人なりの関係の発見である。その人なりの関係を発見するとは
その人にとっての「意味」を見いだすことに他ならない。 *2
一人一人の児童・生徒が自己との関係を意識しながら学習を進めていけるような内容となっていることが必要となるが、その際には納得のいく解答が導き出せるだけの個々の取り組みなり、そのための時間が保障されていることが必要であろう。
しかし、教科の学習の中ではその効率性が重視されるあまり、自分の問いにじっくり時間をかけて心ゆくまで探求することやそのことで充実感を味わうことなどはできにくかった。
また、学級集団として学習することに傾斜がかかり、個の学習の成立について十分保障されていたかと言えば、反省すべき点が多い。
ここにきて「個を生かす学習」「個性の重視」ということが言われてきているが、それは「自分なりの取り組み方で」「自分のよさを発揮しながら」主体的に熱中して取り組む姿を想定して言われていることである。
そこで、学習者がイニシャチブをとりコントロールできる学習環境を整えることが大変重要になってくる。
たとえ年少の子どもであっても、何の意味も感じられないような、従って働きかけの目標の持てないような環境に、能動的・主体的に働きかけることはとうてい考えられないからである。
自己学習能力の核をなすものは、「自律学習能力」すなわち自分の学習を自分で制御し自分にとって最良の成果を発揮しようとする構えや力であると考えられる。そのような能力は、学校を卒業し大人になった時に、あるいはそのような能力が必要になった時にいきなり身に付くものではない。
それは自律的な学習を通すことによってのみ身につけ育てることができるものなのである。
自律の内容について、一つは「課題設定についての自律能力」二つ目には「時間についての自律能力」三つ目には「空間についての自律能力」が考えられる*1が、それらについて児童・生徒が発揮したくなり発揮できるような授業の設計が望ましい。
自分の学習の主体は他ならない自分であり、自分が自分の学習をつくりあげているのだ、という意識が持てるような学習内容・場の設定がなされていれば、生涯学習社会の中で生きて働く力の涵養につながるはずだ、とするのが第二の指摘の内容である。
これまでの音楽科教育が、自己との関わりを十分に意識できるような内容で構成され、自己の世界の広がりや能力の広がりを深く味わえ、そのことによって自己をコントロールすることの楽しさを実感できるようなものであったかどうか、省みることは重要なことであると言える。
■問い返しのある教材■
本来、子どもは「学習」活動をよくする存在である。
旺盛な学習意欲も、学習能力も、ともに持って生まれてくる。
人間の子どもの「学習」活動の活発さは、他の動物と比べても際だっているが、子どもはそれだけでは何でも「学習」してしまう。
そこで求められるのは、先に見たところの「自己をコントロールしねばり強く取り組もう、問い続けようとする力や態度」なのである。
ねばり強く取り組むためには、自己の学習について振り返り確かめる活動がどうしても欠かせない。学習の過程で何らかのフィードバック情報が与えられることで学習に深まりや広がりが期待できるが、従来その役目は主に指導者である教師が担ってきたと言える。しかし、教師がフィードバック情報を与えることよって、学習の主体者である児童・生徒が自分で自分の学習をコントロールしているのだという実感、すなわち指し手感覚を損なってしまう惧れがある。
そこで、教材そのものが問い返しの内容を有していたり、児童・生徒の働きかけに対して「鏡のように」問いをはね返してくる作用を有していれば、そのような指し手感覚を損なうことなく、学習の成立を助けることができると思われるのである。つまり、学習者の働きかけが学習者の意図に叶ったものであるか否かについて、学習者自身がその「はね返し」から反省的に判断できれば、指し手感覚を損なうことなく学習を進めることができると考えられるのである。
音楽の学習に於いては、自分の(自分たちの)演奏を録音し聴取する活動がよく行われる。あるいは、友だち同士で聴き合い評価し合うといった活動もよく行われる。これらは、すべて「振り返り確かめ」ながらより良い表現をめざさせようとする指導意図の現れであろう。
しかし、録音するにしても友だちに聴いてもらうにしても、それは自分の演奏そのものがありのままの姿ではね返っているわけではないし、ダイレクトなはね返りでは勿論あり得ないから、学習者自身が「問い返され」ているという実感は薄いものとなってしまうであろう。
そのような方法的な次元での「問い返し」とは別に、質的な次元での「問い返し」も児童・生徒の内発的な強い動機づけとなる。
自分の考えををわかってもらいたいと切実に感じている文脈の中では、自然に創造的になったり、論理的になったり、批判的に吟味したりしてしまうのだ、という藤岡*1の指摘*2は重要である。
そのような切実さを現出できる学習内容を柱とした教材を開発することができれば、自然に無理なく自分自身をコントロールしたくなったり、そのことによって「よりよく自己をコントロールする力」を身につけることができるであろう。
しかも、自分の指し手感覚を損なうことなく、である。
それが第三の指摘の内容である。
学びがいのある学習とは、
1、一人ひとりの子どもがそれぞれに応じて全力を出し切れるような学習。2、その子どもたちが、結果として、自分の持っていた知識や能力がどのよ うに伸びたか、その成長の跡が見えるような学習のことであり、言葉を変えて言えばメタ認知を保障してやれるような学習のことであると言える。
そのために、問い返しのある教材で学習環境を構成することがどうしても欠かせないと考えられるのである。
3. コンピュータの活用
ここまで見てきたような学習環境を構築するために、コンピュータ(パソコン)の活用が有効である。コンピュータを核にした音楽学習のシステムが構築できれば、何よりも無理のない「問い返しのある学習環境」の構成が期待できる。そして、児童・生徒一人一人が自己の問いを心ゆくまで、納得できるまで問い続ける環境を構成することができるであろう。
さらには子ども一人ひとりが指し手感覚を失うことなく、学習の対象そのものに働きかけながら、自己の効力感を味わいつつ学習を進めることができる
ような自律的な学習を促す環境の構成も期待できる。
■コンピュータと学習■
従来の教育メディアは、教師が生徒に教え授けるのを補助したり、増幅するための「ティーチングマシーン」としての機能を優先に考えられてきた。
コンピュータも当初はCAI(Computer Aids Instruction)という言い方が示すように、教師が文字と言葉で教え授けていくのを「Aids=補助」し、児童・生徒の理解を促進するための道具としてとらえられることが多かったというのがこれまでの実態である。
しかし、ここにきてコンピュータは児童・生徒が自主的・自立的に発見したり、解決したり、構想したり、表現したりしていくための道具としてのとらえられるようになってきつつある。
すなわち、インタラクティブな教育メディアとしてのコンピュータの有効性が漸く注目されるようになってきたのである。
子どもたちがコンピュータに制御されて、前もって決められたコースを誰もが同じ線路の上を、同じ方向と目的に向かって学習していくCAIとは違い、子どもたちがコンピュータと対話しながら思考し、発見し、解決し、発想してく学習に注目が集まりだした、と水越*1は言う。*2
つまり、文書作成、作表、作図、作曲などの自己表現の道具、データ資料貯蔵、検索による問題解決の道具、シミュレーションによる原理発見の道具、センサーなどの計測機器による自然の探求の道具、通信ソフトによる広域コミュニケーションの道具として、子ども世界を飛躍的に広げる手だてとして使われ始めた、というのである。
当然のことながら、コンピュータを活用する意味は、そのような情報を操作しつつ自己の知を構築していくための有効な道具として、学習者の能動的な働きかけに応えてその力を拡げてくれることにあるのであって、決して従来のような「教える機械」というとらえにはないはずである。
森田*1は、「認知理論的観点」に立った学習指導では、学習者を主体的・能動的な知識の構成者と見ることを基本とし、誤りはその知識構成過程の一ステップであると解釈されるのであり、誤りは決して否定的な意味合いのものでなく、世界を理解していこうとする学習者の努力の表れだととらえるべきだ、としている。そして、学習におけるコンピュータの活用も学習者の知識の構成を援助することにこそその意味があるのだとしている。*2
日本語ワードプロセッサ(ワープロ)の出現によって思考様式が変容し、ひいては文字文化そのものが変容しつつある。最も大きな影響を生み出したのは、「挿入・削除・移動・複写」が自由自在にできるという機能である。その為に、人は恐れることなくどこからでも書き始めることができる。もし必要があれば、文章の加除訂正がほかの部分に大きな影響を与えずにできる。そのことによって「考えてから書く」から「考える・書く・読む・推敲する」の殆ど同時進行へと文章作成様式が変わり、それにつれて思考様式もそれに適うものに変化してきたと思われる。
ワープロが文書を美しく見栄え良く印刷するための単に「清書の道具」ではなく、「思考の道具」「知的生産の道具」であると言われるのもそういった事情による。
さらにワープロやパソコンによって作成された文書は、ディジタルな情報であることから、電子出版やパソコン通信などによる「編集可能な情報」のやりとりも可能にしてきた。文字文化が大きく変化したのである。
機器が人間の文化を変えるという如実な現象がここにある。
■音楽の学習とコンピュータ■
音楽でも同様の現象を見いだすことができる。
それは、コンピュータを活用することによる「ノンリアルタイム・ミュージック」というD.T.M.S(Desk Top Music System)の考え方にスポットをあてた時に、最も顕著に見えてくるであろう。
「ノンリアルタイム」であるから、心ゆくまで取り組むことができ、しかも納得ゆくまで試行錯誤を繰り返しながら「自分にとってよりよきもの」をめざすことが可能になる。
それは、誰かに問われて、あるいは問いを強制されてではなく、自分自身の働きかけた作品そのものから「問い返され」てそうなる訳であるから、学習者はその指し手感覚を実感しながら学習に取り組むことができるであろう。 そのような「問い返し」は、実は自分自身に対して自分自身が発する問いであり、知らず知らずのうちに「自己をコントロール」する力や「問いを発する力」を自己の内に育てていくことに他ならない。
D.T.M.Sが一般に知られるようになってから数年しか経過していないが、どのようなアプリケーション間でもデータのやりとりができるように、現在はスタンダードMIDIファイルに変換するコンバータなどのツールも普及し、一般的なシステムとして定着してきている。
また、DOSマシーンで作成されたファイルもマッキントッシュで読み込んで活用できるようAFE(アップル・ファイル・エクスチェンジ)に組み込んで使える「MIDI Trans」などのツールも比較的簡単に入手可能であることから、機器の枠を越えてますます一般的になっていくであろう。
しかし、一般に市販されているD.T.M.Sのアプリケーション・ソフトを
音楽室に持ち込んで最大の効果を引き出せるかどうか、と言えば問題がないわけではない。
音楽室で児童生徒にあずけて学習効果を上げるためには、児童生徒が直感的にその操作方法を見つけられるものでなければなるまい。
複雑なコマンド体系について覚え、コマンドを実行するための操作について覚えなければ、したいことが容易にできないようなものでは、音楽をつくりあげている、という実感は持ちにくい。
ディスプレイ上に示された楽譜のある音符をカーソルで触れればその高さの音が発音されるとか、楽譜上の和音に触れるとその和音が鳴ったり、画面に示された鍵盤図の鍵盤がそれとわかるように動いたりすれば、行動を通して目と耳で確認しながら音楽の探検ができる。
また、楽譜上の音符に触れたままでカーソルを動かすと音符の移動に合わせて音が鳴り、音符も動かせ、しかも修正もできるといった仕組みになっていれば、耳で確認しながらしかも安心して過ちを恐れず学習に取り組むことが可能になる。
音楽に直接触れて働きかける活動を通して様々なことがらについて学びとっていけるよう仕組まれたアプリケーション・ソフトの開発がなされれば、
現在考えられる学習環境をさらによりよく展開していけるであろう。
現在D.T.M.Sのアプリケーション・ソフトには、次に示すようなさまざまな方式がある。
《さまざまな入力方式》
ア. 楽譜入力方式
イ. 数値リスト表示/数値ステップ入力方式
ウ. ピアノロール表示/ノートバーステップ入力方式
エ. リアルタイム入力方式
児童・生徒がコンピュータを通して音楽情報を操作し、そのことによって音楽や音についてさまざまに学びとっていけるようにするためには、「楽譜入力方式」によるアプリケーション・ソフトが最も適しているのではないだろうかというのが筆者の考えである。
「楽譜入力方式」であれば、普段見慣れた楽譜上の音符や記号を操作しながら、「音や音楽」と「楽譜」の関係についても無理なく自然に、活動を通して学びとっていけるであろうと考えているからである。
であるから、ディスプレイ上に記入/表示された音楽情報(強弱記号、装飾記号、表情記号なども含めて)はすべて演奏に反映されることが望ましい。
操作した情報がありのまま演奏に反映されることが、「リフレクター」としてコンピュータが機能するのにどうしても欠かせない要件になるからである。
そのようなアプリケーション・ソフトが開発されれば、望ましい学習環境の構成にコンピュータがより一層貢献することであろう。
4. まとめ
新しい指導要領では、「社会の変化に主体的に対応できる能力の育成」を目標として総則の中に掲げているが、もっと言ってしまえば、三宅*1の言うように『変化に受身的に対応する力ではなく、変化そのものを引き起こせる力をつけてやりたい』*2のであると主張して良いのではあるまいか。
そのような「変化を引き起こせる力」は、自分の手で(自分の働きかけによって)モノゴトに新しい価値が生じるとか新しい意味を見いだせた、といった体験の積み重ねによって育つものであると考えられる。
自分をとりまく環境や学習の対象に主体的に働きかけることができるような学習環境を構成すること、それがひいては学習の自立を促すことにつながり、教師や親の手を離れても「音楽に触れ続けていこう」とする「音楽的な自立」につながっていくのだと考えている。
そのような能力や構えを一人一人の児童・生徒の内に育てていくためには、「子どもを上手に鍛え訓練する」ための小手先の方法ではなく、どのような内容として題材を組織し提示したり、学習の場や教材をどう設定・配置したりすれば学習の成立を促すことができるか、といった質的・内容的な研究開発がなされなければならない。
ここでは、「学習環境の構成」という視点からこの問題を考えてきたが、コンピュータの活用がその解決に大きく貢献できることは間違いあるまい。
古藤*3は、コンピュータの活用能力について次のように論じている。
いま自分が情報を収集・分析し活用しようとしている過程や
その所産をモニタリングしてみて、自分のやり方や活用の仕方
自体の能力を自己評価し、できることとできないこと、あるい
は行動に移すべきこととそうすべきでないことを判断する。
これは明晰な自己把握をする能力を持つから、「メタ認知」に
模して「メタ情報活用能力」と呼ばせてもらおう。
〜中 略〜
「メタ情報活用能力」を発達させるには、自ら進んで情報機器
を気軽に利用してみようとする心情や情報活用の知的な探求を
楽しむ心情(感性)を育てることが大切である。
このような心情を「コンピュータマインド」と呼ぶことにした
い。
*1
コンピュータを導入し、活用することで得られる学習上のメリットは古藤が言うところの「コンピュータマインド」の育成によって、自己の学習を自律的にコントロールしながら進めていくことのできる力や構えの育ちにあると言って良い。
認知や技能・能力だけでなく、誰でも無理なく情意を生かした取り組みができるといった仕組みがなければ、生涯学習論的学力観に基づく自己教育力など育ちようがないが、コンピュータを活用することで無理なくそのような学習環境を仕組むことが可能になるはずである。