このところ、女性がとても元気だという話題を何かの雑誌で読んだことがあります。
 どのように元気かと言えば、会社での勤務が終わったあとで、すこぶる多くの女子社員が「英会話教室」や「カルチャー・センター」にとても「高い料金」を払って行っているのだ、というのです。その点からみれば、現在の若い女性たちは非常に「勉強好き」で「教養」を身につけたがっていると言えそうです。
 だが、と首を傾げている人の意見が今回の話題です。
演劇ジャーナリストの赤坂 治績氏があるコラムに書いている文章からの引用ですが、『教養で身を飾ることは大いに結構。だが、勉強を嫁入り道具あるいは友達に見栄を張るための道具(または出世の道具)と勘違いされては困る。』というのです。
 若い女性を対象に書かれているらしいこの文章は、どうやら若い女性に限らず子どもから大人の「教養や知」に対する構えに対する警告のようにも受け止められます。
 これも若い女性を対象にしたものなので、私の言いたいことを誤解されると困るのですが、何年か前に暉峻康隆早大教授(当時)の「女子大生亡国論」が話題を集めたことがありました。タイトルが強烈なものですから誤解を受けたことと思いますが、教授は女性を蔑視してこの本をものにされたのではない、ということは一読すればわかることです。
言いたかったのは、せっかく大学で勉強しても、卒業してから役立てていない女性が多いということだったのではないでしょうか。
 しかし、それは女性だけの問題ではなく、男性にも、そして子どもから大人まで誰にでもあてはまる問題であると言えます。
「教養」を身につければ「イイ女」や「イイ男」になれるという信じ込みが日本全体を覆っていると言っても良いのかも知れません。
 もっとも「教養」の衣を身につける方が、中身に不似合い、不相応な装飾品で飾り立てる「虚飾」より、ずっとマシであるとも言えますが・・・。

 人間はパンのみでは生きられないということは勿論のことですが、しかし、勉強することそれ自体が目的となっては困ります。勉強にしろ学問にしろ、自分を高めるためにするものですが、それだけに止まっていて世の中に役立っていないとしたら何の価値があるのでしょうか。勉強したことを社会に還元してこそはじめて価値が生じるし、何よりも学問は「アクセサリー」でも「暇つぶし」のためにするものでは断じてない、と思うのですがいかがでしょうか。
 何かに役立てようと思って勉強するという構えからは、決して良い成果を得られないということは明らかですが、勉強した結果得られた「教養や知」は何かに役立てることによって生きてくるし、価値があるはずなのです。このことは、子どもたちにもよくわかってもらう必要があるのではないか、と私は考えています。


 「はじめまして」を手紙で書く場合、先生ならどうお書きになりますか?
 多くはひらがなで「はじめまして」だろうと思いますが、どうしても漢字で書かなければならないとしたら次のどちらで書くのが正しいと思いますか?
 A 「始めまして」
 B 「初めまして」
 このことに疑問を抱いて夏休みの自由研究レポートを作成したのは、三好万季さんという中学生。レポートの題は、『シめショめ問題にハマる。』
 きっかけはワープロで「はじめまして」の変換の第一侯補がAだったこと。
 初対面の挨拶なのだから漢字ならばBに決まっていると信じていたので、このワープロは
「間違っている」と思い、徹底調査を開始したそうです。いくつもの辞書を見たり、他社のワープロ・ソフトの変換ぶりを比べた結果、意外にもA派が多かったそうです。
なにしろ天下の広辞苑がAの表記なのです。(確かめてみたらやはりそうでした)
 そこで世論調査を実行。対象は新聞記者、国語審議会委員、それに文筆業者たち、それに一般の人々。方法はもっぱらファックス、ただし一般の人々は「落ち着いて書いてもらうために」区役所の出張所や金融機関、郵便局などで待ち伏せして、面談で聞き取り調査。
 結果は新聞関係・国語審議会・文筆業者は大半がひらがな、でなければBで、Aは少なかったようです。しかし一般の人々の場合は28対52とAも相当数混じっているとのこと。
 三好さんはBが正しいと信じ、次のように主張しています。
   語義から言えば、「初」は順序の第一を意味するのであり、「始」はことを開始
  することを言う。最初に会った時の挨拶だから「初」である。何かを「始める」
  わけではない。
 これに対する反論として、「はじめる」という音に当てられる漢字は「始」だけであって、「初」は「そめる」としか読めないということが予想されますが、この説に三好さんは納得しません。
   文筆業などの言葉を使う現場ではB派が圧倒的なのに、辞書ではA派も多いと
  いう社会的ねじれ状態ではないのか。
 調査研究の結論として三好さんは新常用漢字音訓表に「初める」という表記も加えるべきだと言います。 
普段何気なく見過ごしている(もっと言えば「見ない振りをしている」)問題に気づき、こだわってこれだけの大胆な調査を展開してしまう中学生がいるということに驚かされます。
「こだわり」が活動のエネルギーを生じさせるであろうことはよく言われることですが、自分の日常的な疑問にこれだけこだわれる心の状況をつくり出せた環境は、どのようなものだったのでしょうか?私たちに今もっとも求められているのはそのことなのですが…。


私たちは、生涯学習社会で「生きて働く力」の陶冶を求めて、毎日の教育活動を展開しているわけですが、「生きて働く力とは何か?」と言えば、それを端的に「自己実現しようとする構えや力」のことであると言い表して良いだろうと考えています。
 さらに、「自己実現とは何か?」と言えば(以前にもリサーチに書いたと思うのですが)、「自己の最大限の成果を発揮しようとする傾向」であると言うことができるでしょう。
 それは、自分の独自性(自分らしさ)を大切にしながら、自分らしい生き方(いっそう自分自身になっていく)を求めて精一杯に生きていこうとしたり、積極的に前向きに生きていくことができたりする傾向のことであると言えます。
 「自分はほんのささいな能力しか持っていないかも知れないが、それを最大限に生かして人の役に立つことができるかも知れない。あるいは、ささやかな力であるかも知れないがそれなりにがんばって自分を拓いていける存在である。」と自分を信じて生きていくことのできる力であると言えるでしょう。
 自分を信頼することを「自信(=コンピテンス)」と言い換えて良いと思いますが、それは単なる「自惚れ」ではないと思っています。できもしないことをやりもせずに、何の根拠もなく漠然と「僕にだってできるんじゃないかな」と思い込んでしまうのは自惚れですが、困難な局面に立ち至った時に「自分なら乗り越える努力を惜しまないぞ」とがんばれる自分を信じることができたり、できるかどうかはともかく克服への意欲を持って立ち向かえる自分を意識したりできること、それは「自信」であると言えます。
そのような自信や勇気を獲得し、生きる構えを身につけたり能力を伸ばしていけるように「お手伝い」するのが私たちの最大の責務であると言えますが、「お手伝い」である以上強制的な命令や指示は無縁なものとして意識されるべきでしょう。
 すずめの学校の先生は「鞭をふりふり」教えましたし、「まだまだいけない」と子どもたちを督励しコントロールしています。しかし、本来の学習を「お手伝い」することを考えた時、それでは困るでしょう。
 私たちは現実に今「生きて学ぶ」存在、新しい自分自身を見いだし切り拓き育てていく存在の一人として、「生きること」や「学ぶこと」の嬉しさ・楽しさをその姿をもって伝えていきたいのです。
 探求すること、発見すること、つくること、築き上げることを求めてあれかこれか試し確かめることなど、人間にとって本来「生きていくこと」は、「学ぶこと」でありその楽しさや幸せを実感することである、ということを身をもって示すことが、子どもにとって何よりも良いモデルとなるはずなのです。
 それが、ひいては自己実現に向かおうとする子どもたちの育ちにつながる最も効果的な道筋であると思われるのですが、いかがでしょうか。
 すずめの学校の先生ではなく、「誰が生徒か先生か」わからないよう共に、しかし学べる環境と期待へのモデルはしっかり構築しているメダカの学校の先生が望ましいのではないかと、この頃ますます強く思うのです。


 新しいスタッフで気持ちも新たに平成10年度が始まります。
 今年度もこのリサーチを引き続き発行していきたいと思いますので、どうぞよろしくお願い致します。
今年も日常的な話題やニュースなどを取り上げ、その中で学校教育にかかわるさまざまな問題について先生方と考えていきたいと思います。
さて、先日のこと学校からの帰宅途上、車を運転しながら考えたことが今回の話題です。 今、まさに学ぶ主体としての子どもが自ら「学び取ること」の大切さが言われています。
以前にも「Learn型」の学習から「Study型」の学習への転換が必要だろうということを、このリサーチに書いたことがあります。
 「教えられて習う」お稽古型の学習を「習う(Learn)型」の学習、「探求し課題を解決していく」研究型の学習を「学ぶ(Study)型」の学習と名付け、後者への転換が生涯学習社会で生きて働く力の育ちには欠かせないだろうというのが、その号の趣旨でした。
 ところで、私たちは「学校」に勤務しています。
 そして子ども達は「学校」でさまざまなことを学習しています。
 「学」は文字通り「学ぶ」の意。
「校」は、漢和辞典によれば「比べる、調べる、調査する、考える、陣中のしきり、手すり、欄干」などの意とあります。字源を見てみないことにはよくわかりませんが、このことから推察されるのは、どうやら「校」には、『調べたり考えたりする仕切られた場』という意味がありそうだということです。
 つまり、学校は学習者が主体となって「見たり考えたり見つけたりして学ぶ場」なのです。
学校と名付けた先人の知恵には驚くばかりですが、よくぞ「伝習所」とか「教習所」などと名付けなかったものだと感心します。
 教える側の論理が先に立てば、伝え教えることを学習者が習熟することが要求されるでしょうが、その論理を生かそうとすれば「伝習所(伝え習わせるところ)」とか「教習所(教え習わせるところ)」と名付けてもよさそうなものです。
 しかし、先人はそうはせず、「学校」と名付けたのです。
いつの頃から「学校」という言い方がされるようになったのかは不明ですが、孟子に学校という言葉が見えることから、その時代にはもう「学校」という呼び方がされていたのだろうと思われます。
 それはともかく、教える側の論理ではなく、学ぶ側の論理と主体性を重視し「学校」と名付けた先人の知恵に気づきハッとしたのです。
そう言えば岡山の閑谷学校は、池田候が苦しい藩の財政の中で建てた立派な結構の学校ですが、広い講堂の中央部が学生の座る位置で、四方に設けられた蓮華型の明かり取りに囲まれた最も良い場所が学生に与えられていたと言われています。まるで、蓮華座に座るお釈迦様のように大切に学生を処遇したのでしょう。
そのような学ぶ場としての「学校」がいつの頃からか、先人の思惑と異なり「伝習所」や「教習所」の傾向を強くしたのは、いつの頃からなのでしょうか。
 かつてユダヤ人のトケイヤーが、『日本には教育がない』(徳間書店)という書物の中で

日本では子どもたちが常に「勉強」している。しかし、学校教育の中身は
受け身になって「習う、教わる」(Learn)勉強だけで、主体性をもって、
自ら積極的に「研究する、調べる」(Study)という意味の勉強は希薄で
ある。そして、幼稚園から大学卒業までLearnするがStudyはまったくしな
い。

と指摘し揶揄しました。
 伝習所や教習所からは、指示待ちの子どもや、他人に合わせてものを覚える子どもは育っても、自分から進んで創造的に思考するような子どもは育たないでしょう。
 「生きる力」を育むことが重要視される背景として、自立の遅れや指示待ち人間からの脱却が強調されていますが、そのためには何よりもまず、Studyする子ども像への期待が大きいでしょう。
 それでは、Studyする子どもの具体像はどのようなものでしょうか。
それは次のようなものではないだろうか、と私は考えています。

・問題発見する子ども
・取材する子ども
・企画する子ども
・探検する子ども
・自己表現する子ども
など主体的で発信型の子ども、自立したバイタリティーのある子ども


 学校が本来の「学びの場」として機能し、子どもがよりよくStudyしながら自己成長・拡大していけるようになることが求められていると言えますが、そのために私たちに何ができるか、どうすればよいかがこれからの学校の最大の課題として意識されなければ、教育改革はかけ声だけで終わってしまうでしょう。
 幸い、私たちは「小さな学校」に勤務しています。
 その利点を最大限に生かし、一人一人の子どもの「学び」に寄り添っていける好条件が揃っています。子どもたちが楽しく生き生きと学びながら自立していけるように、その好条件を生かして今年度もお互いにがんばっていきましょう。
今年度もどうぞよろしくお願いいたします。


 ずいぶんと昔から、「主体性」とか「主体的な学習」ということが言われ続けていて、私たちの子どもの頃ですら「もっと主体性を持て」とか「主体的に勉強しろ」とか耳にタコができるほど聞かされたものでした。そして、今も…です。
 しかし振りかえって考えてみれば、その当時の先生方の口ぶりからは、子ども自身が自分の決定力や選択力を発揮して自律的に行動できるように成長して欲しいという願いよりも、生徒が主体的に行動できるようになれば自分の「手間」がいくらか省けるかな?という自分の都合が見え隠れしていたような気もしますが…。(ちょっと意地悪かな?)
 つまり、本来の主体性というよりも「先生の言うことをよく聞き、先生の望む意味で自分から進んで何かをすることのできる傾向」を暗黙のうちに意味していたとしか思えないのです。
 ですから私は、これを「主体性」とは呼ばずに「子どもの積極的な受容性」と呼んでいます。
本来の主体性とは、子どもの内部からわき起こってくる欲求や必要感がベースにあるという意味で「内発的な構え」と言うことができると思っていますが、有園 格氏(日本教育新聞編集局長)は、『内発性の要素』として次のようなことがらを挙げています。

A知的好奇心 新奇さ、驚き、困惑、疑問、当惑、矛盾といった感情によって問題を解決しようとする心の構え 経験や既有知識と明らかに異なるものや説明できない ものにふれた時、心的に不調和の状態になる。この不調和を解消しようとして、さまざまな考えや試みが行われる。
Bモデリング 感動、共感、共鳴、敬意などの感情によって、自らそうありたいと願うモデルに近づこうとする心の構え まわりの考え方、行い方、表情、動き、作品などにふれた時、優れ た価値のあるものであると、それをモデルとして模倣しようとして、モデルに近づく さまざまな考えや試みが行われる。
C効力感 努力し行動すれば、好ましい変化をもたらすことができるという感情によって、自分の能力に対する確信を高めようとする心の構え 自分なりの見方、考え方、行い方の良さに気づいて、自分もやれそうだという自信や学習活動に参加しているという存在感、自分の考えや行いが学習の中で役立ったという満足感は、さらに主体的な学習活動を喚起する。
D向上心 様々な障害にあっても自己をコントロールし、試行錯誤しながら粘り強く努力することによって、目標に到達しようとする心の構え 学習の過程や成果が自分の期待した通り良い場合は能力や努力に、期待した通りにいかない場合は努力不足や運の悪さに、原因を帰属させることにより、何度も挑戦し最後までやり遂げようとする気持ちを喚起することができる。
E 社会的相互性 自分やまわりの人を受け入れ、信頼し合って、支持的、協力的に応答しようとする心の構え 自分の考えに固執することなく、仲間の考えや言動を受け入れ、謙虚に課題を追究していく姿勢は、ともに学ぶ楽しさや存在感、支え合っている安心感を得させ、学習活動を喚起することになる。

雑誌「教育展望」’1994.9月号 p.37

 内発的な主体性や自主性を育てて行こうとすれば、上に挙げたような要素を満足させることができるような学校生活を編んでいくことが必要になると言えるでしょう。
 教科の授業は言うに及ばず道徳でも特活でも、そのような要件を傾向として備えた子どもに育てようという基本的な考えをベースに持つこと、そしてその観点からさまざまに内容や方法を発想することが大切になるでしょう。
 知的好奇心にしても効力感やモデリングにしても、誰かからそうしなさいと言われてそうしたくなったり身についたりするものではありません。ですから、これらを感じてもらいたいとする先生の構えからは、決して「強制」や「先生による統制、命令や指示」は出
てこないでしょう。
 内発性を重視する学校でこそ、将来知識のパラダイムの転換を迫られるような事態になった時でさえ、本来の意味で「自分から進んで、自分のしたいこととして積極的に取り組める」主体性を発揮できる子どもの育ちが期待できると思われますが、そのために必要なことは何よりもまず私たちの子ども観、教育観をつくりかえていくことなのではないでしょうか。


 学校は、今たくさんの困難な課題を突きつけられています。「生きる力」の育ちを核とした前向きで主体的な人間教育が求められていますが、そこで重要になるのは一人一人の個の確立だと考えられます。
自分らしさを実感しながら自分なりに納得できる生き方を求めて、さまざまなことに挑戦したり築き上げたりすることに喜びや幸せを感じられるような人間の育成が求められていると言って良いでしょう。
 そこで注目されるのが、一人一人の情操であるといえます。「情操」と言うと、何やら芸術的な感覚、文化的な感覚を連想しがちですが、実は「よさを求める、よさに向かおうとする感覚」が情操なのです。そうとらえると、私たちが普段何気なく「情操を培う」と言っていることのなかみがわかりやすくなりますね。
 それでは、「よさを求める」とか「よさに向かう」と言った時の「よさ」とは何かと言えば、それは個々に異なるでしょう。世の中には多くの「よさ」、いろいろな次元の「よさ」が在り、一人一人の人間はその持っているアンテナで多様な「よさ」に反応しているはずだからです。
私が「おいしい」と感じるものを他の誰もが「おいしい」と感じるはずはなく、ひょっとしたら「こんなまずいものをどうしておいしいと感じるの?」と不思議がられることだってあるはずです。まさに「たで喰う虫は好き々き」なのです。
 そのような多様な「よさ」を受け容れられる、あるいは認めることができるようになることが「個性的な生き方をめざす人間性」のベースにあるはずです。
言葉を変えれば「多様な価値観を持つこと」であると言えますが、先日の辞令交付式の折に教育長さんがこんなことをおっしゃいました。
 「多様な価値観ということが言われているが、現在の状況を見てみると価値観が多様化しているどころか、価値観が崩壊していると言った方が適切だろう。」
 そう言われてみれば何が良くて何が悪いのか、何に価値があるのかが見えにくい社会になってしまったことは確かです。
 かつて、ベルリンの壁が取り壊され東西ドイツが新生ドイツとして生まれ変わり、ソ連がペレストロイカによって崩壊しロシアになった時には、それまでの二元的な価値、既に在った価値観から解き放たれて新しい価値づくりの世界史が始まると期待したものでした。
 そこでは、新しい価値を生み出すために一旦は価値の混沌化が起きて当然だし、生み出す苦しみを全世界で味わうことになるかも知れないと漠然と思い、これからどんな社会になっていくのかと期待したりしたものでした。
 しかし、日本では期待とは逆の方向に進んでいるようにしか思われません。
 なぜ、こんな社会になってしまったのかと不思議でなりませんでしたが、ふとこんなことを考えてみました。
阪神・淡路大震災に見舞われた神戸の町は、力強く復興しましたが、あの震災の被災者の多くは何の補償もないばかりか、仮設住宅さえ追い出されそうな雲行きです。
 きっと「国とはなんとあてにならないものか」と落胆していることでしょう。落胆する以上に国を「恨む」気持ちも強いかも知れません。その心情は、神戸の被災者ばかりではなく、「もしも自分の所で起きていたら、自分もあのような仕打ちに会うのかも知れない」という国家への不信の念が日本国中を覆ってしまったと言っても過言ではないでしょう。
さらに追い打ちをかけるようにオーム事件が起きました。
ここでも国は被害者に何もしてくれません。
 むしろ加害者であるオームの関係者を裁ききれないでいる状態です。ずいぶんと長い時間が経過したにもかかわらず、裁判は一向に進展していないようにも見受けられます。
確かに犯人も「人権」を持った人間なのですが、彼らによって殺されてしまった坂本弁護士やサリンで殺害された多くの人々の人権はどこへ行ってしまったのか、といぶかりたくなるような「妙な人権社会」になってしまった感があります。
 ここでも私たちは「国はあてにならないぞ。自分の身は自分で守らなきゃ。」という思いを強くしたようです。
 さらにさらに、バブルがはじけた揚げ句の大不況。そして、少子化による年金の先延ばしや消費税の値上げなど、国は国民のために何かしてくれるどころか民を苦しめる方向に走り続けました。まったくもって国は「あてにならない」ものになってしまったのです。
 そしてもっと驚くことに、国民が頼りにすべき「官僚」と「行政」が自分たちの私腹を肥やすためのさまざまな工作を行っていたことが明らかになり、国に対する失望はその頂点を極めたようです。
 そうなると「民」の多くは何を考えるか?
国があてにならない、頼りがいがないとすれば、「自分の身は自分で守る」以外になく、そのためにはなりふりかまわず倫理観などかなぐり捨てて「自分さえ良ければ良い」生き方をしていくようになるでしょう。人間としての価値観など捨ててしまえ、と思ったとしても無理はないかも知れません。きれいごとは言っていられない、というのが偽らざる実感なのかも知れないからです。
「何をしてもいいじゃない?誰にも迷惑をかけていないんだから」と言い放つ女子高校生の心情も、そのような社会の変化を背景にしているのかも知れません。
価値観の崩壊による「よりよい生き方への志向」の喪失、これが今日本の抱えている最大の問題だと言えるでしょう。
 そのような中で、これから生きていく子どもを育てなければならないわけですから、学校は大きな大きな重荷を背負わされたようなものですが、しかしと思うのです。
 それだからこそ学校の存在意義も逆に大きく浮かび上がってくるとも考えられます。
 純真で新鮮で敏感な子どもたちが、「志(モラール)」を持ってたくましく生き抜いていけるように、寄り添っていくのは意味深いものがあるし、そのような子どもに接することで最も良い影響を受けているのが私たち教師であることを考えた時、よい恩返しの意味でがんばってみようと思いたくなるのは私一人ではないはずです。
誰かの価値を基準に「生きていく」人間ではなく、自分なりによさを求めて生きていけるように育てたいものですが、そのためには私たち教師が価値を求めて生きていく主体者として子どもに接していくことこそ大切なのではないでしょうか。


 この頃思うのは、依然としてなくならない「いじめ」の根っこがどこにあるのか、ということです。幼稚園時代から小学校・中学校まで教育の基調に「みんなで仲良く」とか「仲良しのお友達をつくろう」と言い続けているにもかかわらず「いじめ」を根絶することができていません。できないどころか、ますます陰湿で、かけがえのない命までをも自ら絶たなければならないところまで追い込んでしまうような絶望的な状況になっています。
 これはいったいどうしたことなのか、というとまどいすら感じさせる現状です。 そこで逆に思うのは、理想的な集団とはどのようなものか、ということです。 かつて学生時代に経験したことですが、サークル活動で大勢の友達とワイワイやっていた時に、どうも一人や二人はそのワイワイ・ガヤガヤの群からはずれてひっそりとしていた友がいたような気がするのです。
 そして、それをとがめだてする者はおらず、気楽に仲間からはずれてひっそりできるし、孤独に人生するのに飽きたら、また仲間にもどればよい、という雰囲気が当時の仲間にはあったなあと思えるのです。
いつもみんな仲間でいっしょ、なんてのがよい集団と思えませんし、気楽に仲間からはずれることができて、気楽に仲間にもどることもできる、それが集団の理想のように思えるのです。
 どうも今の子どもの状況、そして大人の状況を冷静に観察していると、そのような理想的な集団とは違う「仲間づくり」が進行しているようにも思えます。
 私は無理して「仲間」しているのに、みんなと同じように行動したり考えたりすることのできない子は「許せない」という心情が「いじめ」の根っこにあるように思えて仕方がないのです。
 子どもの世界だけではありません。大人の世界でもそうしたことがあります。 住宅の自治会などの役がまわって、急にはりきる人には迷惑させられることははないでしょうか。私はこんなに団地のために尽くしているのに、協力しない人間がいるのは許せない、と言いたがったり、時には面と向かって非難する様子を目の当たりにしたこともあります。
 私は戦争を知らない団塊の世代の人間ですから軍隊のことを詳しく知っているわけではありませんが、軍隊というところも大変な「いじめ集団」だったようです。「よい兵隊にする」という愛情に満ちたかけ声が壮絶ないじめを容認させたようですが、今の子どもたちの状況とよく似ているのは、「よい仲間にする」ためにいじめ、「よい仲間になる」ためにいじめられるという両者の関係です。
 古典的な嫁いじめが昔ほどでなくなったのは、核家族化で家意識が解体して、「よい嫁」に育てるための愛情などが必要なくなったからだろうという人もいます。ですからいじめをなくす方向は、むしろ共同体への仲間意識を軽くすることにあるとも考えられます。実際に、塾の場合は、学校と比べて共同体意識の弱いぶんだけいじめも少ないようです。
 もっと言ってみれば、日本人の持つ「共同体意識」そのものが問題なのかも知れません。共同体の一員としている(在る)、ということが自分にとって「救い」なのではなく、「がまんを伴うもの」という意識が根底にあるからこそ、先に述べたように、「私は無理して仲間しているのに…」という思いに縛られてしまうのではないか、さらに「がまんに耐えられるのがよい仲間の印」と問題がすりかえられ、ついには「がまんできる人間にしてあげよう」と強い愛情を発動させてしまうのではないか、と思うのです。
 どうも日本人は一元的に、そして二者択一的に「仲間になること」=「自分を殺して集団に埋没すること」、「個性的であること」=「変わった人間」、「平等」=「なにもかも同じように(違ってはいけない)」ととらえてしまう傾向を持っているようです。
 国際化時代へ向けて、当然に外国人が多く入ってくるでしょうし、海外に出ていく人も多くなるでしょう。そこでは誰もがみんな同じ気持ちや考えに持つといった意味での「仲間」になどなれるはずがありません。
新しいものや珍しいものをおもしろがることこそ、文化の起源で、学問も芸術も、そうして生まれたはずです。異文化を排除したり、無理に「郷に従う」ことを学んだり教えたりしていては、日本文化に未来はないと言えるでしょう。
 「一致団結」の仲間意識で戦後の日本は奇跡的な復興を遂げたとも言えますが、そこで生じた「仲間依存の無責任体制」や、仲間になりきれない人間を排除しようとする「仲間はずしの論理」が気づかないところで根強く息づいていることが、今の状況を生んでいると思えて仕方がありません。
 自分とは異なる何かを認め受け容れ、吸収し与えられる関係を個と個の間に築いていけるようにするためには、安易な共同体づくりに走らず、「他ならない、そしてかけがえのない自分」を「自分の責任」でつくっていけるよう支援していくことこそ大切なのではないだろうかと考えるこの頃です。