私たちは、子どもに「生きて働く力」としての学力、つまり「問いを発することのできる力」「課題解決に向けてねばり強く取り組める力や構え」を「他のよさを認めながら自己を確立していこうとする」姿勢で自らの中に培っていけるようにと願って日々の実践を行っていると言って良いでしょう。
言葉を変えれば、よさをめざして「切瑳(磋)琢磨して生きていこうとする子ども(人間)」がねらう姿であると言えるかも知れません。
小学館の国語辞典によれば、『切瑳(磋)』とは、骨や角を切ってけずりみがくこと、とあります。
そして、『琢磨』とは、石や玉(ぎょく)をけずりみがくこと、の意だそうです。
その二つから
@知徳をみがくこと、
Aたがいにはげましあって勉強し、また、はたらくこと。の意味で用いられていると記されています。
この中には、他の誰かに競り勝つこととか負けないようにがんばること、といったように「他者と競うことによって自己を高める」という意味はまったく含まれていません。むしろ、お互いに磨き合うこと、良い影響を及ぼし合うことに重みのかかった言葉で、まさにこれからの教育を象徴する言葉だと言って良いのではないかと考えています。
子どもたちは競わせると喜んで競争するものですから、私たちはついついそのことに目を奪われてしまい、「一生懸命やっている」「夢中でとりくんでいる」と錯覚しがちです。しかし、それが本当の「生きて働く力」につながるかどうかについては仔細に検討すべきなのではないか、というのが私の実感です。
競争の原理を教室に持ち込むことは容易で、しかも手っ取り早く子どもたちをその気にさせる(実はその気になったかのようにさせる)ことが可能ですので、安易に競わせてしまっていることはないでしょうか。
もしも競わせなければがんばれない子どもたちなのだから、と断定してしまうのであれば話は別ですが、そうだとすれば子どもたちはいつまで経っても自分から課題を見いだし解決に向けて取り組むことができなくなってしまうでしょう。 そのような安易な競争の原理に頼らずとも子どもたちにその気にさせる手段はないのでしょうか。
競争の原理で動いている教室には、「自らを高め、そして互いに影響し合って自分をそして集団を高めていく」という意識は生まれにくく、目に見える敵としての友達に勝つことが「めあて」という意識が支配的になることでしょう。
友達よりも1点でも多く取ればそれで勝てる訳ですから、そこでは自分の精一杯を発揮する必要はなく、それ以上の「努力」や「精進」は『余計ながんばり』としてしか意味を持たないものになってしまうことも考えられます。
南部の陸上記録会や市内の陸上競技会での柳橋の子どもたちの「さわやかさ」は、そのような他との安易な競争に陥らなかったことによって生まれてきたのではないだろうか、と感じています。
そこで目標として意識されたことが、他との勝ち負けではなく、「がんばれたかどうか」「精一杯が出せたかどうか」「心を入れて取り組めたかどうか」という自己への問いかけだったからではないか、と思っているのです。
誰がどんな評価を下そうとも今の自分にはこれが最良のものだったと満足することができるような取り組みをめざせる、外的な評価とは無縁の自己を作り上げていけるように仕向けるためには、競わせることを第一義に位置づけることをしない学習の場の構成が必要なのではないかと考えるのです。
「自分にとっての一番」「自己の最大限」をめざしているうちに、結果として良い順位が得られたというのが子どもにとって意味のあることで、競うことそのものに意味があるとは思えないのです。
実は、いま盛んに言われている『自己実現』とはそのことなのです。
自己実現とは、自己の最大限の成果を発揮しようとする
傾向のことである。 ゴールドシュタイン
世界的な潮流も「対立の時代」から「調和の時代」へと向かっています。
本当に子どもにとって意味のある「力」や「態度」とは何なのかを吟味しながら、学校生活を編んでいく必要があるのでしょう。
学力を二つの捉え方で考えよう、と主張するのは、先ごろ京都大学をめでたく退官され、今やマスコミでも大もての森 毅先生。
知識をたくわえたり技術を身につけたりするといった割に評価しやすいのが、「ハードな学力」。
それに対して、文化や教養などが「ソフトな学力」だと言うのです。
以下、森先生の文章。
いくら知識をためこんだところで教養とは言わぬ。ためこんだり忘れたりしているうちに、あたかも畑が耕されるように自分の心に染みていく、これが教養というものだ。
〜中 略〜
大学に四年間在学して、決まったカリキュラムのなかで単位をすべてクリアし、しかも高い成績で卒業するというのは、ハードな学力である。
カリキュラムになくとも、文化的な関心は自分で広げていく、これは柔らかい学力。ソフトな学力を高めるためには、たまたま興味を持ったテーマを見つけたら、情報に自分からアクセスするとか、図書館に行って調べるとか、あるいは仲間をつくってネットワークを広げるとか、それについて教えてくれそうな先生に接触するといった能力が必要とされる。
こう考えていくと、ひょっとすると社会に出てから役に立つのはハードな学力ではなくて、ソフトな学力かもしれぬ。
〜中 略〜
ソフトな学力には、いくらか家庭の文化力も影響する。親と子どものふれあいなどという抽象論ではなく、両親がどれだけ文化的な感覚を持っているかによって、子どもの能力は左右される。
家庭の雰囲気が、子どものソフトな学力のかなりの部分を養うのだ。学力とは本来、子どもひとりの力で成り立っているものではない。先生や親が進歩しなくて、子どもだけ進歩させようなんて原理的にとうて無茶だ。おとうさん、おかあさん、あなたの学力はどれだけ変わりましたか。
「変わらなきゃの話」 ワニ文庫 P.138〜
ハードな学力がまったく必要でないか、と言えばそのようなことはないと断言できるでしょうが、情報が時々刻々生み出されることが予想されるこれからの社会では、ソフトな
学力がずっと必要となりそうです。
仕事の都合上、あちこちの小中学校の先生方の授業を参観させていただく機会がよくあるのですが、何となく気になることばがあるのです。
それは、授業の中で子どもたちに対して発せられる「〜してもらいます」とか「〜して下さい」といったことばです。たとえば、授業の導入時に「今日は、植物の種子の構造について調べてもらいます。」というように子どもたちに課題を提示する場合や「グループに分かれて話し合いをして下さい。」というように活動を促す場合に発せられるところのいわば「先生語」です。
「〜をしてもらいます」というのは、してもらう主体が話をしている側、この場合は先生にあり、しかも「もらう」わけですから「してあげる」側が優位にあるという構図が見えます。しかし、どうやら「お願いだからしてくれませんか?」というへりくだった言い方でもなさそうで、「一応お願いの形をとってはいるがもう既に決まったことだから、してくれなきゃ」というような半ば強制的な意味あいが込められた言い方に受け取れます。
「〜してもらいたい。」のではなく「〜してもらいます。」という具合に断定していることに起因すると思われますが、「たい」と「ます」ではこれほどにニュアンスが違うのですね。(だって「たい」は海水魚だけど「ます」は淡水魚だもの、なんてことは言いっこなしです。)
一方、「〜して下さい」は文字どおりお願いをしてしまっている言い方ですが、気になるのは、どちらの言い方にしても先生方が子どもたちに学習のお願いをしているということなのです。
主体的な学習活動を、と言いながらこのように子どもたちに「学習して」とお願いをしてしまっては、子どもたちが「これは自分の学習である」という実感を持つことはできないのではないかと思われるからです。
一度や二度そう言われたからといって、先生や親のために学習をしていると思い込む子どもはいないでしょうが、授業のたび毎にそのことばを聞かされているうちには、「頼まれたからやるか」といったイニシャチブを放棄した感覚を持つようになってしまうのではないかと恐れているのです。そして、問題はそれだけでなく、実はもっと根が深いのではないかとも感じてもいます。
それは、なぜ親や先生方がそのようなお願いのことばを使うのか、ということと関わってきますが、もしかするとお願いする側は「知識や技術は外から与えなければ身に付かない」と思っていて、その獲得はなかなか難しいものがある、苦しいこともある、だからここは一つ丁寧にお願いする姿勢をとって何とか抵抗なく受け容れ、取り組めるようにしようとしているのではないでしょうか。
もちろん、常にそう意識して「〜して下さい」とか「してもらいます」と発言しているわけではなく、昔からの習慣としてそう言い慣わされているからそのように言っているだけさ、という意見もあるでしょう。
しかし、だからこそ見直さなければならない、ということも言えそうです。
佐伯 胖(東大教授)は、著書『「わかる」ということの意味』(岩波書店)の中で「教育とは、子どもたちへ向けての私たち大人の『文化的実践への参加』の呼びかけであると考えられるでしょう。あるいは、子どもたちはすでに、『子どもである』というだけで、十分に文化的実践に参加しているのですが、より積極的に、大人からの呼びかけの中で参加を深める活動を促すのが教育であると考えることができます。」(208ページ)と述べています。
参加への呼びかけですから「〜してみようよ」「〜してみたらどうかな」という言い方ができるはずで、その方がこれからの教育活動にはなじむのではないかと考えているのです。
私の友人の若い先生は、子どもたちにこのような投げかけをよくします。
「先生の提案だけど、こんなことしてみない?」
「こんな課題を考えてみたんだけど、どうかな。やってみようよ」
これらは、学習の主体を子どもたちにあずけ、君たちで判断していいよ、あるいは、もっといい何かがあったら提案してよ、という柔らかい構造の投げかけをしていると言えます。
あくまでも主体は子どもたちであり、子どもたちが「文化」に参加しようとする意志を尊重し、育てようとする姿勢が窺えるのです。
生きて働く力としての「学ぶ力や構え」を育てるのは、文化を共有し、これからともに新しく創造していこうとする子どもたちへのそのような「おもしろいからやってみようよ」という呼びかけであることに間違いなさそうです。
どこの書店をのぞいてみても、今や「How to」ものの花盛りです。
いわく「○○の知的生活術」「自己啓発のすすめ」「○○の技術」「○○術」等々。
自分の開発した技術を押し付けがましく?、これが最良の方法だといわんばかりの勢いでその「ワザ」を披瀝し、「こうすべきだとか」「こうでなければ」と主張しています。
女性の先生方は、書店にこれまでどれだけの「ダイエット本」が並べられたか、どれだけ多くの方法が紹介されたかご存知ですか?
詳しい数は不明ですが、いずれにしても百は下らない数の「○○法」と呼ばれるダイエット術が編み出されたことは間違いないでしょう。
ところが、「塩もみ」にしても「痩せる石鹸」にしても一時の熱狂だけで、その後は潮が退くように話題にもならなくなってしまっています。それはどうしたことか、といぶかるまでもなく、ある一つの方法(成功例)は誰にあてはめてもうまくいくとは限らない、ということを考えると納得がいきます。
もちろん、ある一つの方法だけでは心もとないのでいろいろな方法を試しているうちにあぶはちとらずになってしまい、その為にそれぞれの方法についての熱がさめてしまった、という事情もあるかも知れません。
それだって、一つ一つの方法が短期間で効果を上げていれば、浮気をするように他の方法を試みる必要がなかったのでしょうから、その人にとって「役に立たない方法」であったことによるのは間違いなさそうです。
そのように誰かの編み出した「技術」は、その人にとって最良のものであっても、他の人にとっては最良のワザとならないということが多々あります。
大事なことは、個々の人々が自分の望む姿をめざして「あんなこともやってみた」「こんなことも試してみた」「もっと効率的なしかたはないか」とさまざまにトライする中で、「これならば」と納得できる自分に合った方略を見つけ出してみようとする姿勢なのではないでしょうか。
それでこそ「自分の使える技術」「自分にとって意味のある技術」としての「ワザ」を開発し磨き、効果的に使いこなして「生きる上での力」としていけるはずなのです。
私たちの心にはともすると、そのような「マニュアル」に頼る気持ちが生じてしまうことがあります。困った時や迷った時などの指針として参考にしたいというのであれば良いのですが、ともすると一から十まで、ひどい時には方法だけでなく個人内に生じるはずの目的や価値までもマニュアルに頼ろうとする姿勢が見えることもあります。
「痩せたい」からいろいろな方法を試し、自分なりの方法を編み出そうとするのが通常の姿勢でしょうが、「痩せること」まで何かの本に書かれていることを見て、「あゝそうか、痩せることがトレンディで良いことなのか。それじゃ、痩せなきゃ。」と乗せられてしまう傾向がなきにしもあらずです。
大切なことは、「自分なりのワザ」を見つけ開発し、使えるものとして身につけていくのは、「自分の望む姿」を実現したいという『願い』がベースにあるからこそ意味を持つということに気づくこと、気づき直すことなのではないでしょうか。
そうすれば、マニュアルにすべてを頼り、誰かのモノマネで何かをしようという構えは解消されていくのではないか、と考えるのですがいかがでしょうか。
今回は私自身のことからお話をすることにします。
私は、どういうわけか電話が苦手です。電話で話をしたり、かけてきた相手の方と電話上で応対をすることが苦手、というわけではなく、かかってきた電話を保留にしたり転送したりする操作が苦手なのです。自分自身が電話を受けて自分自身がお話をするぶんには何ということもないのですが、それをどこかに回すなどということになると不安になってしまうのです。もちろん、受話器をかかってきた状態のままで放置し、電話に出るべき誰かを呼びに行くというのであれば、問題はないのですが、保留にして受話器をいったん電話のフックに戻すということがどうしても不安なのです。家のものに言わせれば、電話などよりずっと難しそうなコンピュータなどをいじっているくせに(本当はずっと易しい)、どうして?ということなのですが、自分でも納得行く答えを見つけることができずにいました。
ところが先日ふとしたことで「なるほど」と頷ける答えを発見しました。
コンピュータは、操作の仕方がわからなくても「あれかこれか」試すことができ、自分なりに「ああそうか」と思えるまで何度でもやり直すことができるのに対して、電話は仮に一度操作を間違えて回線が切れてしまったりすると二度とやり直しがきかないのです。
「失敗しちゃった。残念。」と自分の内部だけで処理できれば良いのですが、何と言っても電話には相手があります。時には「あれ、切れちゃった。失敗失敗。」では済まないことが多くあります。現に、私もあるところに電話をかけ、相手が操作ミスをしたためにもう一度かけ直したという経験を幾度かしています。
「もしかしたら切れてしまうのではないか」という不安が、どうやら電話ぎらいの最大の原因なのではないかと気がついたのですが、それは「失敗が許されない」ということから「すくみ」をもたらしているように思われるのです。
翻って考えてみると、学校の中にもたくさんそのような場面があるように思われます。普段はできていることでも、「チャンスはたった一度だけ」と言われたとたんに不安にかられ、失敗を犯してしまう、あるいはうまくいかなくなってしまうということが日常生活でもよくあるからです。
何度でもやり直しがきく、何度でもトライ&エラーを繰り返して心ゆくまでチャレンジできる、やり方を変えて試せるといった環境であれば、安心して新しい手段や方法を見つけだしたり、自分なりの理解を築き上げたりできるはずです。
いま「子どもの経験を生かして」ということが言われていますが、経験を生かすためには「安心して失敗できる環境」づくりがどうしても必要なのです。
そうなってこそはじめて「失敗を恐れず、へこたれずにねばる」ことも学べるし、幾度も積み重ねたトライ&エラーの経験を次の行動に生かすこともできるのです。
経験がなければ経験を生かすことなどできはしないからです。
なによりもまず「やってみよう」と勇気の持てる環境、安心して取り組める環境が必要なのではないでしょうか。
因みに「環境」とは、子どもを取り囲むヒト・モノ・コト、子どもが働きかける対象、対象の持つ内容などを総括した概念として使っています。
「失敗したらもう一度チャレンジしてみるさ」と思える環境づくり、それもこれから生きて働く力を身につけていける学校づくり、地域づくりには欠かすことのできない要件であると考えています。
牛や羊、そして馬といった草食動物の多くは、生まれて一時間もすれば自分の足でしっかり大地を踏み締め、おぼつかない
足どりであっても自分の力で歩くことができます。
肉食動物の脅威から少しでも身を守ることの必要性からそのような力をもって生まれてくるのだ、と言われています。
つまり、生まれ落ちたその時から「生きて」いけるように、母親の胎内で「生きるための力」を十分身につけ、ある程度成熟した姿で生まれてくるのだというのです。
一方、人間の子どもは一人でものが食べられるようになるまで、ずいぶんと多くの時間を費やさなければなりません。
立ち上がるのにおおよそ一年、安定した歩行ができるようになるまで更に一年といった具合ですが、社会で独り立ちしていけるようになるには更に多くの気の遠くなるような年月を費やさなければなりません。
つまり、人間は牛や馬などのように母親の胎内で十分に育ち、生きる力を身につけた上で生まれてくる生き物ではないということです。
そう考えると人間は他の動物と比べてはるかに「不利」で「弱い」存在のように思われるのですが、実はそのことが人間の最大の特徴で他の動物に比べて優位に立てた理由であるらしいのです。
生まれてから独り立ちできるまでの期間が、他の動物と比べて驚くほど長いということは、母親の胎内で母親から「受け継がなかった」部分が多いということで、それは「より多く学べる余地を残していることだ」というのです。
よくしたもので、そのような人間の赤ん坊は「受け継いでいない多くの部分」について学習できる能力や資質を他の動物に比べて頗る多く持っているらしいのです。
そして、そのことは「自然環境の急激な変化」や「思いがけない未知の事件との遭遇」などに際して対処できる「学習能力」とその経験の応用を可能にし、他の動物に見られない数多くの資質の獲得に役立ってきたのである、というのです。
ポリネシアには「アタオコロイノナ」という神様がいます。
「アタオコロイノナ」という舌をかみそうなその名前の意味は、「何だかよくわからないもの」なのだそうですが、人間はその「何だかよくわからないもの」を探しに天国からこの地上に生まれ降ち、「何だかよくわからないもの」を探し回って見つからないまま年をとり、「何だかよくわからないもの」がひょっとすると別の世界にいるかもしれないと別世界(あの世)にでかけていっている。これまでにずいぶんたくさんの人が探しにでかけたが、まだ誰も帰ってこない、だからまだ「アタオコロイノナ」は見つかっていないらしいというのです。
おもしろい話でしょう?
「何だかわからないもの」、つまり人間が母親から知識として受け継がなかった多くの「未知のものごと」を探し、身につけるために「生きているようだ」ということを人々は漠然と意識していたのでしょうか。
そして神様は、そのことに必要な「学ぶ力」だけはしっかりと人間の血の中に植え付けてくれたもののようです。
「知りたいという欲求」や欲求を充足させる「学べる力」とその学習したことを「転移・活用」し、更に能力の幅を広げる旺盛な欲求など、それらはすべて母親の胎内で「母親から受け継がなかった多くのこと」があるからこそで、それこそが人間が他の動物を引き離している最大の徴(しるし)であるというのです。
ですから(三段論法のようで気恥ずかしいので、遠慮がちにそして勇気を奮い起こして言えば)、人間にとって「生きる力」とは
「学べる余地を持ち、学びとろうとする、あるいは学びとれる力や態度」であると言えるのではないでしょうか。