知力と学力

波多野誼余夫・稲垣佳世子
岩波新書
         「日常生活での学習の二つの型」
      1、遊びや趣味の領域でみられるもの
        それをするのが楽しいから、それを知るのがおもしろいからという理由で、ある活動が繰り返される場合。
      2、生活上の必要から、ある活動が繰り返される
        このタイプの特徴は、何を学ぶのか、なぜ学ぶのかの目的がその人にとって明らかなこと。
        いいかえれば、生産を第一義にした活動
                            PP.30


知力と学力

波多野誼余夫・稲垣佳世子
岩波新書
「自己学習能力」
    1、自己の理解の程度を識別し、かつそれを深めるのに適切な方略を採用する  「自己制御能力(モニタリング)
    2、これを支える「深く知ろうとする意欲」
    3、「自分の知的可能性についての自信」

                             PP.123


知力と学力

波多野誼余夫・稲垣佳世子
岩波新書

「深く知ろうとする意欲」
  もしも学校が理解を深める場として機能しているなら
   1、知的好奇心が安定し、持続的に発揮されるようになるだろう。
   2、自分が追求するに値する問題かどうかの判断ができるようになることによって、知的好奇心を選択的に働かせるように
     なるだろう。
                                                           PP.132


知力と学力

波多野誼余夫・稲垣佳世子
岩波新書
「自分の知的可能性についての自信」
   自分への信頼という点で重要な要素として、自分の努力の意義を信じているか否か、があげられる。
   ドウェックらによれば、日頃、学校での勉強の場面で何か失敗した時、それを自分の努力が足りなかったからと考える傾向
   が高い者は、そうした傾向の低い者にくらべて、ねばり強く問題に取り組むという。

                                                            PP.133


知力と学力

波多野誼余夫・稲垣佳世子
岩波新書
「外的評価のデメリット」
   外的評価は、より深く理解しようとする動機を抑制してしまう。
   外的評価の学生は、評価なしの学生にくらべて翻訳の作業を「楽しかった」とする傾向が低かった。
                                ↓
   外側から評価を下すことは、学習をみずから進んで継続していこうとする意欲を低下させるといえよう。

                                                             PP.156


知力と学力

波多野誼余夫・稲垣佳世子
岩波新書

「競争主義」
   いずれにせよ、競争主義は、成績がよいかわるいか能力が高いか低いかで人間の価値を判断させること
   になり、学校での子どもの生活を楽しくないものにする元凶であることは確かである。

                                                           PP.168


岩波講座 教育の方法1「学ぶことと教えること」

波多野誼余夫
岩波書店
「学習のプロセスにおける4様相」

  1、知識は、主体が外界と相互交渉する中で、つまり外界の情報をその内部に同化する(とりこむ)ことにより
    しだいに獲得されていく。
  2、主体は、この同化に際して先行知識を利用する。
  3、知識の獲得(変容も含めて)は、一部は外生的なもの、すなわち事物の性質やそれが働きかけによっていか
    に変化したかを観察することに依存するものであるが、もう一部は内生的であって、外界への働きかけが互い
    に協調される(意識化され構造化される)ことに基づいている。
    働きかけることのはねかえりとして生じる知識の獲得だといってよい。
  4、学習は、ある種の認知的制約によって方向づけられている。

                                                             P.99


知的好奇心

波多野誼余夫・稲垣佳世子
中公新書−中央公論社
「楽しい経験としての学習」

    われわれは、自分の知識が不十分であると知らされると何とかその空白を埋めようとする。
    これはある程度の「緊張」をともなうものである。
    けれども、だからといって、「不快な緊張」を取り除く為にイヤイヤやっているという説明では、どうも合点がいかない。
                                                          PP.62

    サルの探索が不快な緊張状態によって生じ、適切な解き方がこれを解消させることによって習得されていったのだ、
    という説明は、説得的ではない。
    むしろ、サルは好奇心にかられて、楽しくそれを探索しているうちに、解き方を自然におぼえたのだというべきだろう。
                                                          PP.64


知的好奇心


波多野誼余夫・稲垣佳世子
中公新書−中央公論社
「好奇心と向上心」
    どちらも、それが誘発する行動は、何かそれ以外のほうびを得るためでない、という意味で、「内発的」なのである。
    したがって、生物学的に緊急度が高いものではない。
    むしろ、生存への脅威がなく、生理的にもみちたりた状態において始めて働きやすいものなのであろう。
    だからこそ、これらの動機づけは、遊びや探索の場面ではっきり観察されることが多いのである

                                                           PP.66


知的好奇心


波多野誼余夫・稲垣佳世子
中公新書−中央公論社
「学習者の役割り」
   1、「働きかける人」
   2、「待ち受ける人」
   3、「やりとりをする人」
   4、「判定する人」

PP.146


「わかる」ということの意味


佐伯 胖
岩波書店

文化の前提としての「わかる」

   「わかる」ということは、本来「よいもの」を「よい」と判断すること、「よい」とするさまざまなものごとを「よい」として
  認め合いわかちあうこと、また、「よい」とされるものごとを生み出したり、普及させたりするために必要な手続きを
  明らかにし、その技能を身につけること。

                                                             PP.205


「わかる」ということの意味


佐伯 胖
岩波書店

「わかりあい」

   文化とは、本質的には「わかりあい」だ。
           〜略〜
   文化的実践活動を中心とした考え方に立つと教育という人間の営みも、「わかりあい」の活動ということになる。
   つまり、教育とは、子どもたちへ向けての私達大人の「文化的実践への参加」のよびかけであると考えられる。

                                                              PP.208


「わかる」ということの意味

佐伯 胖
岩波書店
       「学び方を学ぶ」
       学校とは、学ぶ所であり、学び方を学ぶ所である。
       学校で学ばなければならないのは、
          1、自分で何を学ぶべきかが選択できること
          2、自分で自分の学びが正しいか否かを判断できること
          3、他人や社会と交渉を持ち、社会や文化から新しい知識を吸収できること
       

                                                       PP.212


「わかる」ということの意味

佐伯 胖
岩波書店
        「学び方を学ぶ」
          〜略〜
   どうしてこのような「選ぶこと」の学びが無視されてきたのでしょうか。
   私にはその最大の原因が、例の「標準的知識・技能の伝達」を学校の使命と考える風潮にあると思うのです
   「標準」ですから、そこには本人の選ぶべき余地はないのです。
   「伝達」ですから、受身にならざるを得ないわけです。

                                                       PP.214


「わかる」ということの意味


佐伯 胖
岩波書店

「標準的な知識や技能を確実に伝達する所」が学校か?

  (「標準的な知識や技能を確実に伝達する所」が学校)という体制が確立してしまうと
                    …略…
  学校内では、標準的知識や技能がどこまで伝達されたかを調べる為、子どもの達成度を常に測定し、評価することが
 中心的な作業ということになり、子どもは常に達成を問題にされ、評価を気にしてよりよく伝達をされるようにと努力する
 ようになるでしょう。
                                                        PP.202


よりよく生きる子どもを育てる教育について

                  関 勤(茨大名誉教授)
                  茨大附小研究紀要1988への特別寄稿より
  「生きることに意味を見出だす」
    ○ブルーノ・ベッテルハイム(精神分析、教育心理)
     「昔も今も、子どもを育てる上で一番大切で、また一番難しい問題は、子どもが生きることに意味を
      見出だすように、手助けしてやることである。」

    ○「生きることに意味を見出だす」「生きることの意味を知る」というのは、いきることについて知識的な
      理解をしているなどということではない。
         〜略〜
      それは、自然に育つところの、自分を肯定的に好意的に(愛情をもって)うけとめる感性や心情や
      態度だといっていい。

    ○子どもが自分の人生を能動的に、積極的につくり上げつつ生きてゆこうとする感性や心情や態度を
     持つこと、すなわち子どもが生きることに対して自信と勇気を持つことを意味している。

  「能力・適性」
    ○能力・適性と呼ばれてきたものの本質について次のように見直されている。
     1、能力・適性と呼ばれてきたものは、結果論でしかない。
     2、能力・適性と呼ばれてきたものは、その当人が自分自身の可能性をどのように見ているかという
       自己概念と深く関係する。


学力観の見直し

         渋谷 憲一
         教育展望 1989.3月号

 学校教育で育てるべき資質
  
    ○情報活用能力
    ○問題解決能力
    ○自己評価能力
    ○創造的能力
    ○自己教育力


自分のために歌がある時

             柳生 力
             音楽の友社

「わかる」ということ
    「わかる」ということは、常に「わからないこと」が次々に見出だされていく「わかる」でなくてはならず、
   このことが主体の音楽的行動を導き、支え、持続させていくことになる。

                                                      PP.62


自分のために歌がある時


            柳生 力
            音楽の友社

   多くの子どもたちが、計画された遊びの中で遊ばされているが、それは遊んでいるのではなく、
  遊びの真似事をしているのである。
   そして、まねごと、作りごとの遊びは、彼らの生活に何の意味も持たせず変革も起こさないのである。


感受性はどこへ


           柳生 力
           音楽の友社

   笛を通じてその技術や演奏法の知識を知らせるのが目的ではなく、その過程を通して音楽の意味や
   美しさをさぐりながら、音楽のより深い意味に迫る意欲や体験を深めていくことが目的である。

                                                      PP.16


感受性はどこへ

          柳生 力
          音楽の友社

   笛を吹く中で、音の不思議さと美しさに目覚め音楽の深い味わいと美しさを発見し、自身の
   喜びとし、それを笛に託して表現する中で音楽を生活化し得る児童に育てることが目的である。

                                                     PP.16


感受性はどこへ


          柳生 力
          音楽の友社

    すべて技術と呼ばれるものは、自分の欲求を満足させるために求められ、自己発見の過程を経て
    定着していくものである。

                                                     PP.20


感受性はどこへ


         柳生 力
         音楽の友社

   目的をもって遊びを行なおうとするとき、遊びは失われてしまうであろう。
   遊びの夢中と無心と真面目がもたらす結果の大きさに着目。

                                               PP.306


自分のために歌がある時

         柳生 力
         音楽の友社

   学習に供される楽曲としての必要な条件は、歌っても歌っても飽きることなく歌うごとに新しい
   意味を見出だしていけることであろう。
   言葉をかえると、歌い込めることに耐えていくだけの持続力を楽曲自体が保有しているかどうか
   が問われるのである。

                                                PP.249


自分のために歌がある時

        柳生 力
        音楽の友社

   自分からの働きかけがないところに、外部から一方的にかたちを与えられ、表層的な完成をねらって作られ
   たものは、主体自らが目標をめざしてエネルギーを使い努力したものでないが故に、様式の内化は希薄で
   流動的である。

                                                 PP.282


わかりかたの根源

       佐伯 胖
   『おぼえる』
      「覚えよう」という意図は、「わかろう」という意図、「わかろうとする活動」の中で位置づけられ
      ており、そのかぎりで深くおぼえることができる
                                                  PP.98

      人がものごとを「おぼえる」のは決して単に「おぼえる」こと自体が目的なのではない
      このことを「おぼえる」ことが、何らかの意味で将来役に立つことが何となく感じられる時、
      それを「おぼえよう」とする
                                                  PP.98


わかりかたの根源

     佐伯 胖
  『わかる』
      ・文化への参加、文化的営み
      ・文化遺産の伝承〜新しい文化の創造の原点
      ・文化の中の営みでありながら、文化を発展させのりこえさせる原動力であること
      ・一人ひとりのものであり、同時に文化の中で他の人々に共感され、共有されるべき文化としての
       価値をもっていること
                                                   PP.16


わかりかたの根源

     佐伯 胖

 『わかること・できること』
   参加は理解に先行する。
   人はものごとを理解するより、以前に大人の行為のまねや大人に助けられた社会的・文化的行為のなぞりによって、
   文化的営みへの参加のレベルを深めて行く。

               〜略〜

   しかし、子どもはしだいに「理解」そのものが文化的に受け入れられることを知り始め、理解を作り出そうとする。
   その段階でさきにほとんど無反省的に取り込まれていた行為が、意味理解によって吟味されたり裏付けされるの
   である。
                                                            PP.15
   その場合の「勉強」とは「誰かに教えてもらう」ことであって、自分達で考えたり探求したりすることでは
   ないことが多い。                                                PP.18

   日本人は一生涯を「研修期間」で過ごす。
   みがきあげ、修練しつづけ死ぬまで「修行中」なのである。
   つまり、文化の創造への参加はいつまでも後回しにして生きているのである。
   「できる」を「わかる」から分離して修行し、教えてもらって生き続ける。
                                                             PP.18


わかりかたの根源

佐伯 胖

   『基礎学力』
     いわゆる「基礎学力」というものを「抽出」して練習させるということは、知識の文脈性(文化的意義)
     に対する注意をうばう副作用をもつ。
     そして、この副作用は根強く残り、他の教材の 学習態度にも転移して「勉強」というものは、つねに
     意味の無い練習で成り立つものだという誤った考え方に陥らせてしまう
 
   『熟達の二側面』
      1、情報処理過程のムリ・ムダ・ムラを省く
        短絡化〜いちいち考えないでもパッとできるよう習慣化・自動化
      2、原点もどし〜ものごとの根拠をすばやく見出だし本質を見抜き、前提を掘り起こすことの習熟

    ものごとには、「基礎的」と呼ばれる事項があることは認める。しかし、そのような事項が「基礎的」
    であるのはそれが活用されている文化的実践の文脈に於いてであり、事項そのものが独立して「基礎的」
    なのではない。基礎的であるという認識は、そうならしめている文化的実践の文脈と結び付けて子どもに
    教えるべきである。
                                                           PP.27


学習は本来「楽しい」ことなんだ


  わが国では、「教科書」というのは「おもしろくない本」、本屋に並べてもおそらく誰もお金を払ってまで手に入れよう
 と思わない本であった。そのほか、ドリルにせよ、何にせよ教材と名のつくものは見るからに「おもしろい」「楽しい」
 ものではなかったといえよう。
 「勉強」というのは本来苦しいことであり、しんどいことを我慢して、こつこつと努力してこそ、進歩し向上するのであ
 り、おもしろがってなどいられない、というのが従来の学習観であった。
  それが、コンピュータの世界でマルチメディア時代に入り、コンピュータというものを「楽しむ道具」だという考え方が
 広がりはじめ、それがいわゆる「教育ソフト」にも波及してきたのである。ここに、コンピュータが「学習」というもの
 の質を変える第一の可能性がある。

                                               佐伯 胖(東大教授)
                                            教育展望 1994,10月号,p.6


教師の役割は何か


 しかし、子どもがコンピュータを通して、真正の文化に直接触れる機会が飛躍的に増大していくとなると、教師の役割について、従来とは違った意味を考えないわけにはいかないのである。
 そこで考えられることは、教師もまた「学び手」になる、ということである。
 つまり、真正の文化に対して、教師は、子どもと「ともに学ぶ」存在になり、子どもとともに世界の意味の広がりと深まりを
味わい、感動し、好奇心をかきたてるのである。
ただ、子どもよりは多少とも「先輩」であるから、おもしろさがわかるだけでなく、おちいりやすいつまずきや、誤解の可能性を警戒する用心深さを備えている、という点が、子どもとは違うのである。

                                                佐伯 胖(東大教授)
                                            教育展望 1994,10月号 p.14,15