「精神測定的教育観」 と 「発達的教育観」 |
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エルカインドという米国の心理学者は、教育に関するこのような考え方を「精神測定的教育観」と名づけた。 今から10年程前のことである。 このような考え方と言ってもはっきりしないので、少し説明すると、精神測定的教育観では、 @学習者を、客観的に測定できる能力をもった者であるという面だけからとらえようとする。 A学習しなければならない「知識」は、学習者の外側に、(学習者の精神活動とは独立に)存在しているもの で、外的な基準によって客観的に(学習者の主観的世界を考慮することなく)測定される。 B学習の過程は、学習者にとっては受け身のものとなる。学習心理学の法則があって、それに従って進行する。 というように考えている。 ここで「学習心理学」と呼んでいる学問分野は、学者によって理解の仕方が違うが、大学で使われる教科書の 傾向から言うと、ネズミやイヌに芸を仕込むときに、どのように訓練をすればよいかという問題意識のもとでお こなわれた実験研究の結果を整理したもので、人間独特の精神活動を無視していることが多い。 一頃流行した「プログラム学習」は、精神測定的教育観に基づいた教育の典型例だと言ってよい。 エルカインドは、精神測定的教育観ではいけないのだと主張しているのであって、彼は、自分の考え方を「発 達的教育観」と呼び、次のような特徴をあげている。 @学習者の能動的な活動を重視し、学習者は、環境との交渉の過程で、自分なりの技術を考え出したり、自 然現象や人間関係の出来事について、自分なりの解釈や理解をつくり出していける存在であるという見方 をする。 A学習の過程は、学習者自身による知識の生産であると考えて、教師は一見、子どもの誤解にみえる子ども の解釈にも、知的活動の質的な分析をすることによって好意的な評価をする。それが学習者の積極性や自 信をうながす。 一般的に言って、幼児教育では、親も教師も、発達的教育観をもって子どもに揺する傾向がある。 小・中・高と教育の階段が上昇するにつれて、精神測定的教育観に傾いてくる。そうなれば、学び、理解する 喜びよりは、良い成績をとることの方に関心が向く。そのような状況では、良い成績がとれそうもないと思って いる者にとっては、「学びの場」は苦業の場となってくる。 「意欲」〜 その喪失と回復 永野重史(放送大学客員教授) 雑誌教育展望 2003,9月号 p.8..9 |
教育工学的接近 | |
教育を、物の生産になぞらえて考える生き方を、「教育における工学的接近」と呼ぶことにすると、その動きは、今から50年程前に存在した(ラルフ・タイラー『教育課程と授業の基本原理』)。 だが、1974年の春にOECDのCERI(教育研究革新センターとわが国の文部省の協力事業として「カリキュラム開発に関する国際セミナー」が開かれた際、イリノイ大学のアトキン教授が、産業関係においても、限定された目標を達成するために効率だけを追求した「工学」が、意図しなかった効果としての様々な産業公害を生んだ苦い経験があるのではないか。 教育においても、工業的手法だけにこだわっていては、意図しない副次効果を生む可能性があるだろうと述べて、工学的な行き方とは対照的な「羅生門的な行き方」について説明した。 羅生門とは、黒澤明監督による映画「羅生門」のことで、この映画が、ひとつの事件が異なる立場、異なる視点に立つ人によって、非常に異なった理解をされるという「認識の相対性」をうったえていることから、工学的でないカリキュラム開発に、その名をとってつけたのである。 アトキン教授の「羅生門的な行き方」は、工学的な行き方と対照的なので、これを説明すれば、「物の生産」 のようになってきた教育とは違う、別の道が見えてくる。 私は子ども達の意欲を回復させるには、このような検討をしてみる必要があると考える。 工学的行き方を「工」、羅生門的行き方を「羅」と略記して、二つの方法を比較対照してみよう。 1、教育目標について 「工」〜「理解する」という、主観的な表現を止めて、「これこれの問題が解ける」という明確な記述(行動的 目標の記述)をする。 「羅」〜主観的、非行動的目標でよろしい。 2、教材について 「工」〜はじめから教材を限定する。 「羅」〜実際に指導する中で、学習者の考えることを理解して、教材の価値を発見するのがいい。 3、教授学習過程 「工」〜あらかじめ作ったコースをたどる。 「羅」〜教師や学習者の即興を重視する。 4、強調する点 「工」〜教材の精選、教材の配列。 「羅」〜教員養成(様々な視点から評価をすることや、教師や学習者の即興性を尊重するならば、教師は、そ ういうことができるプロでなければならない)。 以上のように対照してみると、教育における工学的な行き方というものが、前の方で説明した、精神測定的教育観と非常に近い立場であることがわかると思う。 ところで、教育工学的な行き方にしても、精神測定的な教育観にしても、どちらも根本的な欠陥がある。 それは、教育について考えようとする際に、知識を貯えさせることばかりを考えて、「疑うこと」や「わからなくなること」の大切さについては、少しも考えないことである。 全問に正解することが学習の目的となっていれば、ものごとを自分の頭で、自分流儀で考えることは少なくなる。算数の問題であれば、問題を見るとすぐに「どの公式かな」と考える。そして頭の中にある記憶をとり出そうとする。 このようなやり方でも、ある程度までよい成績をとることができる。 だが、そのような勉強によっては、アインシュタインのいう「精神的な筋肉」をつけることはできない。 〜 略 〜 (工学的手法に依存すると) どういう学習活動をするかも、かなりくわしく決まっている。子どもの評価の仕方も決まっている。 学習者は教育的に加工されて「製品」になる存在になってしまったのである。 このような立場におかれた人間は、なかなか意欲的にはなれないものである。 私は、「疑う子ども」にまかせておくと、(うまくいけば)際限もなく疑問がおこって、ためしてみることも、学ぶことも多くなると考える。 〜 略 〜 「意欲−その喪失と回復」という与えられた題に対して、大分遠廻りな答案を書いたが、私が言いたいことは、 学習内容をあまりにも親切に限定して、子どもの行く先には、客観テストが待っているという環境では、子どもたちの意欲は低下するだろう、ということである。近頃は、四則計算や漢字の読み書きなど、要素的なことが大切に扱われて、子どもの知的生活の多様性をありのままに見ようとしない教育論が多い。学校で学んだことを疑うことが褒められるぐ らいの「ゆとり」があれば、もっと活気が出てくるだろうと信じている。 もっとも、それには、教師ももっと勉強しなければならないだろう。 「意欲」ー その喪失と回復 永野重史(放送大学客員教授) 雑誌教育展望 2003,9月号 p.10..13 |
一斉授業の中に 個性発揮の機会 |
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教育展望 1992,12月号 永野重史(国立教育研究所) まず、プログラム学習の流れをくむ指導では、「行動目標」の達成をめざして、そのための便利な方法として個別学習を 大事にしているのであるから、学習の進み具合や、知能の上下に応じるということはあっても、個性を伸ばすのには 特に役立つとは思えない。 子どもの反応に対して、あまりにも早く、正しいとか、誤っているという判断を下すのは、個性の伸長をさまたげることに なるのではないかと心配になる。 P.44 |
個性の育成 | |
「一斉授業の中での個性の育成」 教育展望 1992,12月号 永野重史(国立教育研究所) 言ってみれば、私は、個人の内的な活動に「個性」をみようとするのである。 ところが、多くの人は、人格心理学で「特性論」と呼んでいる、外部から人の特徴を測る「ものさし」をあててみるというやり方で、個性の問題を考えようとする。 「今までより多面的に生徒を評価しよう」というのは、「ものさし」をふやす主張。これとは違って、「ものさし」の上の「正常領域」を拡大して、少しぐらいの変わり者も大目にみようという主張もある。 どちらも、人間の内側で行っていることよりは、外から測ることを大事にしているので、学習指導や生活指導にはあまり役立たない。 私は、人間を外側から、客観的にとらえることばかり考えている心理学者の手から、子どもたちを解放したいのである。 P.44 |