◆共通の文化としての音楽◆
 携帯型の音楽プレーヤーは、ウォークマンの出現以来とどまるところを知らない進化と発展を遂げ、普及の一途をたどっている。その間、メディアはカセットテープ、CD、MD、IC、大容量のハードディスクと変遷すると同時に、音楽を手に入れる手段もテクノロジーの進化とネットの高速化によりいっそう手軽になり、しかも高品位の音質で音楽を楽しめるようになった。
そうしたことにより音楽好きな若者が増え、音楽文化は隆盛を誇っているように思われるが、一方では個別化にいっそう拍車がかかり、「共通の文化としての音楽」の意味が薄れつつあるように見受けられる。
 
 自分だけの音楽の世界に浸り、音楽の持つ社会性から離れてしまっている傾向が見受けられるからである。
 また世代を越えて一緒に歌う機会や歌える歌も少なくなりつつあり、共通の文化として音楽を享受することができにくくなっている。
 この4〜50年間の社会の変化がめまぐるしく、世代による生活経験があまりにも異なることにも依るのであろう。同じ歌を歌うにしても、共感できにくくなっていることは疑いようがない。
 日本全体が都会化し、それにつれてふるさとを持たない子ども、かつては日常的であった生活経験を持たない子どもが唱歌「ふるさと」を実感をこめて(かつての子どものように)歌うことが困難であることは言うまでもない。

 加えて消費がもてはやされる社会である。
 消費社会の進展が、これでもかといわんばかりに次々と新しい作品を提供し続け、流行に乗り遅れることに対する強迫観念を無言のうちに消費者に植え付けることが、「古い価値あるもの」の意味を希薄にしてきたこともこうした現状の背景にある。
 新しい価値に目を向けることは古い価値あるものを切り捨てることではないはずだ。
 しかし、消費社会はそれを許さない。消費社会にあっては、自分なりの価値観をもってモノを選別し、自分にとって必要であるかそうでないかを決定していくことを容易にはさせない。「消費は美徳」「内需拡大」「多様化による自由」などという美辞麗句についつい踊らされ、自己の満足とはかかわりなく新しいモノを限りなく追い求めることを余儀なくされてしまう。そこで働く一元的な価値観のもとでは二者択一の論理が主流となり、『それはもう古い』という一言で「かつてのよさ」が何の迷いもなく捨てられていく。

 古いモノに拘泥するわけではないが、伝統的なよさを見直す目、伝統的なよさを後世に受け継いでいく姿勢、伝統に理解と共感を持てる感性が失われつつあるのは悲しいことである。子どもから老人まで、世代を越えて音楽を楽しむことは単なるノスタルジーとしてではなく、音楽の社会性ということから考えても非常に重要な問題であるにもかかわらず、あまり重視されてこなかった。そうした視点から音楽教育を見直すことも大切なのではないだろうか。

 国際理解ということが言われて久しいが、それは自国の文化を血肉のように体感・理解できてはじめて可能なことだ。自国の歴史や文化に無理解・無頓着な人間が育てば、そうしたことも真の意味で実現は困難だと言わざるを得ない。ことは音楽だけの話ではないのかも知れない。


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