ここに掲載するのは、昭和24年刊行の倉澤榮吉(千葉師範教授)が書かれた『国語単元学習と評価法』 という書物の中で見つけた文章である。 この書物の中で一貫して語られているのは、現在の「総合的な学習」に見る教科のかかわりと非常に通じるものである。 昭和24年という戦後まもなくの時代に、こうした書物が世に出され実践に供されていたということは驚嘆に値するし、 こうした考えが存在し教育に警鐘を鳴らしていたということも「教育事情の変わらなさ」を思い知らされる。 学校の図書室で偶然見つけたこの書物には、そうした意味で現在にも通じる 「重要な指摘」が盛り込まれていることから、ここに紹介する次第である。 |
〜 略 〜 児童が中心となって、自主的に活動を営み、それを、効果あらしめるように合理的に評価しつつ学習するなら、それはいわば 「密度の濃い学習」となろう。たとい教材が、一冊の本として与えられなくても、また、文としてまとまった一節でなくともよい、 文の一部分、新聞、路上所見・・・なんでもよい。それが、学習のなかに流れ、それによって、学習が十分に営まれればよい。 小さな一文をも、それを契機として××文学というような範囲に拡大できる。 多面的な学習に拡大しても、学習がばらばらになったり、きれぎれになったりすることがない。 なぜなら、それを、求心的に統一する力があるから。 さて、その、密度の濃い一体の学習の中核になるものはなにか。それは、児童生徒の興味と能力だけであろうか。 進歩的学校の思想は、当然、地域社会学校(community school)に発展しなければならなかった。自由主義、児童中心主義 だけでは、学習活動としての求心力を十分に発揮できないのである。 教材が高すぎることは、学習をきれぎれにし、力の弱いものとするが、児童の要求に放任すれば、学習でなくなる。 効果のないからまわりをする。 そこに、 social needs の考えがもり返されねばならない。 近代の教育課程(curriculum)や学習指導の中心課題は、この社会的要求と児童の欲求の「調和」にあるのである。 われわれは、こどもの力を高く買うが、もし必要以上に評価すると、これは、「こどもの無知を無知なるがゆえに愛する」という、 自己侮辱の返し矢となる。 学習の密度の中核として、この中和点をみつけるかどうかが、新しい学習の成否のかぎを握るとすれば、どうしたら正しく見つけ たらよいのだろうか。 私は、教師が生徒と調和点を見つけるとは、教科書を含めた多くの資料と、こどもの実態とをにらみ合わせて、そこに教科書を つくることだと考える。 与えられた教科書も、そのままでは、その特定の児童生徒の実態(必要と興味)に即しない。 しかし、その教科書は、一般的な国語の基準のようなものを示している、社会的要求の一面である。 したがって、それを、具体的な地域のこどもに即して、効果のある、密度の濃い学習活動に導くために、真の教材として、具体化 すること、これこそ、新教育であろう。 別のことばで言えば、「仮の教科書を真の教科書とすること」つまり、学習の具体的目標(ゴール)を決定することである。 これが大切なのであって、これができれば、評価の目あてもできる。 仮のものをほんとうにするには、資料の如何、児童生徒の力の欲求の実態、自分の指導力を考え、それを教科書の要求に あわせてみなければならない。 そして、この調和がとれたとき、教科書は完成したことになる。一つの課を学習するときについても同じことが言える。 倉澤 榮吉(千葉師範教授) 「国語単元学習と評価法」 世界社 昭和24年7月 刊 pp.25..26 |
私は、単元学習ということばを重視したい。りくつをつけてみれば、単元(unit of
works)の学習(activity)なのである。 この中に、教材面の要求と、児童の自由な作業とが調和的にとけこんでいると見たい。 一体ユニットとは「まとまり」というのである。 そして、教材が、単元としてまとまっているのも、学習というはたらきがあるからである。 「単元としてそこにあるから、まとまった学習ができる」のではなくて、「学習として考えるから、当然単元としてまとまる」ので ある。この逆説的な言い方を敢えてするほど、私は「学習」を重く見る。 私どもの日常生活も、連続した一つづきのまとまりであるが、学習はなおのこと、まとまりを持つはたらきである。 そのまとまりは、新教育においては、 時間によってまとまる(第何時間目・・始めのベルから終わりのベルまで・・の45分間) 空間によってまとまる(教室という特定な場所) 一定の有限的な教材によってまとまる(第何課、何ページから何ページまで) 教師の権威や指示でまとめられる(「この文の中心は、ここだよ」「私の言うことが大事なことで、この時間の勉強の目的 です、よく覚えなさい」) のではない。 そういうわくづけは、ドルトンプランや、すでに古くエミールなどによって打破された。 学習のまとまりは、内部から、まとまるのである。児童生徒の活動において、目標〜評価のはたらきにおいて固くまとまって いるのである。 私どもは、まわりのわくに注目しないで、その内面をしらべてみなければならない。 この考え方が新教育へのきりかえである。 倉澤 榮吉(千葉師範教授) 「国語単元学習と評価法」 世界社 昭和24年7月 刊 pp.29..30 |
〜 略 〜 題目としての単元でなく、論及対象としての作業単元でなく、はたらきとしての活動自体である、単元学習の、その内部をのぞいて みよう。 @ まずその活動の流れを一貫しているものは、興味(関心)である。 それは外にあふれて、旅行となり、現場学習、インタビューとなり、図書館となり、演出というような活動となって現れている。 時には、絵、音楽となる。考え深い質問(thoughtful question)問題解決(problem-solution)知識の組織となって現れる。 その興味が中心を貫いているがその中心(center of interest)は、心理的な面であって、教材の分野(subject matter field)に あるのではない。 A しかしながら、興味(関心)とは、何かへの興味(関心)である。価値のある何かへつながる興味でなければ、成長を期待する ことができない。 したがって一見興味を持たないようなものでも、関心を持たせる必要もあるのであって、unity exists in the leaner's activity for some purpose なのである。 この目的がなければ、興味は永続しない。その目的aimes を自分の具体的な到達目標 gaols と自覚したとき、興味はおき 関心が持たれるのである。 ゴールに向かってスタートする。スタートしたら、もうゴールまで一目散にかける。 この意味で、単元学習にとって、まず大切なのは、ゴールの見定めである。 〜 略 〜 倉澤 榮吉(千葉師範教授) 「国語単元学習と評価法」 世界社 昭和24年7月 刊 pp.30..31 |